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最高裁署名の呼びかけ  PDF
最高裁判所宛署名用紙

動労千葉鉄建公団訴訟   解雇撤回・JR復帰署名

4万4327筆の力で不当労働行為を東京高裁に認定させました。署名へのご協力に心よりお礼申し上げます

2013年9月27日
国鉄闘争全国運動

 国鉄1047名解雇をめぐる動労千葉の鉄建公団訴訟控訴審判決が9月25日、東京高裁において出されました。難波裁判長は、1審における不当労働行為認定を覆すことはできず、「動労千葉を含む国鉄分割・民営化に反対する姿勢を示していた労働組合に属する職員を、このような労働組合に所属している自体を理由として、差別して不利益に取り扱う目的、動機(不当労働行為意思)の下に、本件名簿不記載基準を策定し(た)」(判決文)として不当労働行為を明確に認定しました。
 地裁判決に続き高裁においても不当労働行為を認めさせたのは4万4327筆の署名の力です。5万に迫る「解雇撤回・JR復帰を求める要望書」を裁判所に4度にわたって提出し、「国鉄改革の真実」を暴き出し、広く社会に訴えたことが不当労働行為を認定させた大きな力です。1047名解雇をめぐる裁判において本当に大きな前進をかちとることができました。署名をお寄せいただいた全国の仲間に心から感謝を申し上げます。
不当労働行為を明確に認定させた以上、次は解雇撤回≠フ判決をかちとるべく全力を尽くします。最高裁宛ての「解雇撤回・JR復帰」10万人署名を直ちに開始します。高裁宛署名への大きなご支援に感謝するとともに、あらためて新たな署名運動へのご協力をお願いいたします。
以上

動労千葉 高裁判決に対する声明
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《都知事選出馬へ》 鈴木達夫氏 記者会見・フルバージョン

1月15日(水)
朝から、鈴木達夫・記者会見ビデオ


ブーちゃんも観ています
昼食は塩麹キノコ・鮭 福島物販の納豆と漬物
3時オヤツ オヤツの時に鈴木達夫さん立候補の
インターネット上の記事を読み合わせ
ナイキさん、久々登場。東京オリンピックを辞めよう!意見が圧倒的に多い ノブオちゃん「剣菱」を持って登場
夕食は豚白菜鍋のトロロを掛けて 差し入れ・留萌の帆立 イカのワタ炒め
鈴木達夫・記者会見ビデオを地域の人と共に2回、見たり、立候補について語り合った1日。
都知事選に「街」から出馬する! 受けたねぇ!
弁護士・鈴木氏が都知事選出馬表明 (2014年1月15日 読売新聞
 23日告示の都知事選で、弁護士の鈴木達夫氏(73)が14日、都庁で記者会見を開き、無所属で出馬することを表明した。

 鈴木氏は、2020年東京五輪・パラリンピックの開催を中止し、高齢者や貧困対策へ浮いた予算を充てることを主張している。全ての原発をすぐに廃炉にすることや、長時間労働など就労環境の改善、医療や保育の充実なども訴えた。鈴木氏はNHK勤務を経て司法試験に合格し、1991年に弁護士登録。主に労働問題に取り組んできた。
鈴木さんの印象。

一言でいえば、「てくてく」な人です。
徳島刑務所への道すがら、NHK解雇されたときの裁判の話になりました。
労働運動は「てくてく」が大事。...
どんな小さな労組もふくめて、毎月手刷りのビラを作って、解雇撤回の支援をお願いしてまわった。
坂の町・長崎。吹き出る汗をぬぐいつつ、てくてく歩く。1月で靴が擦りつぶれる。
どこの誰かもよくわからないから、初めはけげんな顔をされる。労組の女性書記さんたちも初めはそっけない。それでも、毎月行くと、そのうち、夏にはお茶をだしてくれたりした。
その時、支援をしてもらった労組、職場の仲間への恩義は、今も忘れない。・・・そんな、義理人情の苦労人です。
ぜひ、多くの人に、働く我らの一票を託せる、その人柄を知ってもらいたいです。


      徳島星野文昭さんを救う会の人の言葉

★祝勝無罪12★ 鈴木達夫弁護士からのメッセージ

法政大学文化連盟無罪ブログから転載
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鈴木達夫(すずきたつお)
   1940年東京出まれ。東京大学工学部卒業。1964年NHKにディレクターとして入社。
   67年日放労長崎分会委員長。1968年自らの不当配転闘争で逮捕・起訴。1982年最高裁
   で罰金1万円確定。NHKを懲戒免職。1988年司法試験合格。第43期司法修習生。
   91年第二東京弁護士会登録。同弁護士会刑事弁護委員長。日弁連刑事弁護センター委
   員。

   法大4・24&暴処法弾圧弁護団団長
   動労千葉顧問弁護団
   国労組合員訴訟多数
   鈴コン訴訟弁護団
   憲法と人権の日弁連をめざす会事務局
私にとって、「暴力行為等処罰に関する法律」(暴処法)には特別な因縁がある。
 40数年前(!)、日放労(NHK労働組合)長崎分会の委員長として10数名の執行委員とともに団体交渉を当局に要求したことをもって、同法違反で現行犯逮捕された。起訴後、15年間最高裁まで闘い、結局、懲役求刑を罰金1万円まで押し戻したものの、「職場秩序を乱した」として懲戒免職になった。いわば人生の転換を強いられた法律です。

 弁護士になってからは、分割・民営化に反対する多数国労組合員のビラ配布が暴処法違反で起訴された事件を、途中から主任として引き受け、「法廷でも完黙」方針で若手弁護士と闘い抜いた結果、同法の適用は粉砕した。私にとっては「暴処法リベンジ」第1弾だった。

 そして、この法大弾圧。全員無罪の地裁判決の意義は、去る7月21日の「祝勝会」パンフをはじめすでに多くの方によって語られ、私も提起し、ともに勝利の大きさをかみしめている。

 「一人の仲間も裏切らない、団結の勝利」で、何と言ってもまず最初に私の瞼に映るものは、08年5.28、29弾圧の直後に当時の文連委員長斉藤さんが「恩田さんの処分許さず」とひとり学内ハンストに入った姿だ。また、梅雨の下、その彼を心配そうに見守る増井さんの白衣姿だ(なぜ白衣?!)。そして、代用監獄に勾留された34名との接見でこのことを伝えたとき、皆が目に浮かべた涙。人間をバラバラにして踏みつけているこの時代は、この若者らよって必ず変えられる!深く確信した。治安弾圧法としての暴処法を食い破ったこと、「奇妙な協力者」に頼るしか立証の手だてを持てず、それも中途でパンクした検察の焦りと破綻。述べたいことは、まだまだ山ほどありますが、近いうちに機会に恵まれれば……。

 何よりも控訴審勝利をもって歴史的総括を。
すごい筋金入りの左翼弁護士が都知事選に立候補しました
弁護士と闘う のブログから転載
弁護士・鈴木氏が都知事選出馬表明
 23日告示の都知事選で、弁護士の鈴木達夫氏(73)が14日、都庁で記者会見を開き、無所属で出馬することを表明した。
 鈴木氏は、2020年東京五輪・パラリンピックの開催を中止し、高齢者や貧困対策へ浮いた予算を充てることを主張している。全ての原発をすぐに廃炉にすることや、長時間労働など就労環境の改善、医療や保育の充実なども訴えた。鈴木氏はNHK勤務を経て司法試験に合格し、1991年に弁護士登録。主に労働問題に取り組んできた。
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弁護士と闘う!です。
すごい筋金入りの左翼弁護士が都知事選に立候補しました。
東京五輪開催中止!全ての原発の即時廃炉を公約に掲げています。
 それにしてもです!
宇都宮けんじ日弁連元会長が早々と都知事選に立候補表明しており大きなくくりでいえば同じ左翼系候補と見えるのですが。共産、社民が宇都宮候補に推薦を決めた今勝算はあるのでしょうか?
 
そんなものはどうでもいいようです。

我が道を行く、宇都宮と一緒してくれるなでしょうか
 
まもなく始まります日弁連会長選挙に立候補している武内更一弁護士に近い方です。そして高山俊吉弁護士が会長選挙に出られなくした(懲戒処分を受けて)その怨念もあるのでしょうか
 都知事選挙がまるで日弁連会長選挙のようになってまいりました。
 
ぜひ、鈴木先生は宇都宮先生以上の得票を取っていただきたい思います
選挙演説は日弁連の暴挙とか宇都宮という奴はをたくさんお願いいたします 
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 宇都宮執行部の正体
 宇都宮氏は、高山勝利の阻止を眼目に登場した候補と言われた。ところが、高山立候補資格の剥奪(はくだつ)の中で、その「体制内」が分裂し、「再投票」となりました。 宇都宮氏は、選挙戦で終始「裁判員制度の推進」を言明した。「決して改革の後退ではなく、『第二次司法改革運動』」とも言っています(週刊金曜日3月19日号)(略)
  われわれは司法改革絶対反対で団結して進みます。この間、高山さんは、会長選挙の期間、候補者ではないにもかかわらず、全国を行脚し、特に若手弁護士との連帯を深めました。また、3月9日、東京高裁に懲戒処分取り消し訴訟を提起した。かくも卑劣な攻撃には絶対に屈しないということです
           反減髪候補
鈴木達夫弁護士(第二東京弁護士会)22212
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日弁連会長選挙について
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鈴木達夫弁護士を支持しようというブログ @http://blogs.yahoo.co.jp/ruasahi/31105568.html 
憲法と人権をめざす 日弁連の会http://www.mezasukai.jp//
鈴木達夫の略歴 2014.1.14
1940年 東京生まれ
59年 東京都立新宿高校卒業。東京大学理科I類入学
64年 工学部土木工学科都市計画コース卒業
    日本放送協会(NHK)に番組制作担当ディレクターとして入局。長崎局に赴任
67年 日放労(NHK労組)長崎分会委員長
68年 米原子力空母エンタープライズ佐世保寄港阻止闘争
     NHKの東京配転命令に反対する百日間闘争の米、起訴され休職に
69年 全国反戦青年委員会代表世話人
82年 15年間の裁判闘争の末にNHKを解雇される
88年 司法試験合格
91年 弁護士登録(第二東京弁護士会)

<弁護士会での主な委員会活動>
・日弁連刑事弁護センター委員
・第二東京弁護士会刑事弁護委員会委員長
・同会憲法委員会委員
・同会綱紀委員会委員

<現在受任中の主な訴訟事件、弁護団>
○国鉄千葉動力車労働組合顧問弁護団
・動労総連合・強制出向無効確認訴訟
・対国鉄労組(国労)組合員資格確認訴訟
・東京西部ユニオン鈴木コンクリート工業分会・地位確認訴訟
○法政大学学生弾圧裁判弁護団
○星野文昭さん再審弁護団

〈運動団体〉
O「憲法と人権の口弁連をめざす会」事務局
O「すべての原発いますぐなくそう!全国会議(な全)」呼びかけ人
O「国鉄分割・民営化に反対し、1047名の解雇撤回闘争を支援する全国運動(国鉄闘争全国運動)」呼びかけ人
『反戦派労働運動』陶山健一 第3章 反戦派労働運動の歴史 4 日放労長崎分会の闘い
 日放労〔日本放送協会労働組合〕長崎分会の不当配転阻止闘争は、百日をこえる大闘争の末、総評・岩井事務局長のあっせん案なる介入によって圧殺された。この闘いは、『朝日ジャーナル』などで報道され、70年を前にした「反戦青年委員会」による下部労働者と民同中央幹部との労働運動における闘いとして注目されている。

 長崎県の労働運動は、長船社研を先頭とする三菱長崎造船第一組合の「分裂下の闘い」、68年1月米原子力空母エンタープライズ入港阻止の佐世保闘争に続いて、三たび全国の労働者に重大な問題を提起している。しかも、長船―佐世保
NHKは、長崎県評・地区労、反戦をとおして固く結ばれており、70年に向かう労働運動の先駆的経験をつきだしているのだ。反戦青年委員会のあり方をめぐりやかましい論議の折からも、「反戦」の労働者が組合を担い、総評・岩井事務局長まで動かす闘いをつくりあげたこの闘いは、大いに学ぶべきものがある。日放労長崎分会は、六八年11月13日の日放労大会、あるいは起訴された鈴木分会長の公判など、厳しい条件下で闘いをつづけている。われわれはこの闘いに学ぶために、まず闘いの生きた経過と、長崎分会の人々自身の総括を率直に関くことから始めるべきだと考える。以下は、マスコミ反戦の有志の協力を得て、鈴木分会長はじめ関係者から、くわしい経過と意見を取材し、それにもとづいて構成したものである。

1 配転という名の攻撃と闘いの姿勢
 日放労長崎分会が闘った不当配転阻止闘争は、68年8月13日にはじまり、11月13日、日放労臨時中央大会までちょうど4ヵ月、100日余りの闘いであった。そのかん日放労長崎分会では17〜18歳の高校を出たばかりの労働者から定年間近の54〜55歳の労働者まで年齢をこえて連日泊りこみ、不当逮捕に屈せずそれをはねかえし、あるいは日放労中央から一切の闘争資金を断ち切られたにもかかわらず、一人数万円の自前闘争資金をまかないながら闘い続けてきた。

 8月13日、長崎ではちょうど8・8反戦青年集会、8・9国際反戦集会を佐世保闘争以来の長崎地区反戦の力量をかけて成功させた直後、長崎地域の反戦運動・労働運動の一角を支えていた日放労長崎分会に対して、定期異動に名をかりた、本社転勤の配転攻撃が分会長である鈴木達夫氏と反戦青年委員会の事務局長である久能氏に対してかけられてきた。

 ここでふれておかなければならないのは、日放労という組合の性格と配転がもっている意味である。日放労は戦後、放送単一から脱退し、第二組合として出発した組合であり、典型的な民同型労働組合であった。そしてこれまでの運動方針はすべてNHK防衛運動にほかならなかった。しかしそういう組合の中でも、たとえば3年前長野分会が放送の自由ということですばらしい闘いをローカル番組を通じてくりひろげていたし、東京本社の仲間たちが当時おこなわれていた文部省の学カテストがNHKの電波を通じて全国の学校に流されることに反対して数回にわたる団交でその中止を申し入れて闘った。

 その闘いは残念ながら局側に強行されて挫折せざるをえなかったが、そのような闘いがくまれるや否や、また長野分会のような拠点が形成されるや否や、日放労も経営の側も、その闘いをおし潰す常套手段として配置転換という手を使ってきた。つまり地方に拠点を分散させる、また地方の場合には本社転勤という一見栄転の形をとっておこなわれる拠点きり崩しが公然と横行していた。しかもそれが実際に組合のレベルでは闘いにもならない。3年前の長野分会が不当配転によって潰滅した時も、後になって「不当配転の疑いか?」という記事が日放労の中央機関紙に一
行だけ載っただけであった。

 NHK長崎分会が8月13日出された配転命令を直ちに闘争委員会で拒否して闘うことを決意したのは、第一に今述べた如く配転のもっている不当な性格であり、第二には、長崎分会はこの一年有余の闘いの中で、日放労の中でまぎれもない最左派としてエンタープライズ寄港阻止闘争、ハルゼー寄港阻止闘争を闘い抜き、67年10・8以来きりひらかれた日本の反戦闘争の胎動を分会レベルでうけとめながら闘ってきた分会であったこと、第三には、この配転がその中で生まれた長崎地区反戦、そしてその中心を担っているNHK反戦青年委員会に対する正面突破の攻撃
であったからである。

 翌日から一斉に職場討議にはいり、すべての職場で二人の転勤は不当であるという決議がなされ、不当配転撤回が分会全体で確認された。そして同時に、長崎地区労・県評、反戦青年委員会、べ平連などとの地域共闘の結成も同じ14日に行われた。

 しかし、日放労九州支部(九州の各分会を統轄している)は「不当配転かどうかはわからない。したがって人事委員会をやった後に不当配転という言葉を使う」といって「人事紛争問題」とか「人事の問題について疑いが起こっている」という情宣しか流さなかった。その中で長崎分会は、長崎の地域共闘の力をバックにして、8月15日から中央局人事委員会で闘いをはじめた。中央局人事委員会は日放労ではなんと15年ぶりに開かれたものである。この事実はいかに配転問題が闘いにすらならなかったかをあますところなく物語っている。

 人事委に臨むにあたって、長崎分会闘争委員会は次のことを決断した。当時長崎分会がもっていた力としては、長崎の地域をバックに、とくに反戦青年委を中心とした力を背景に一挙に実力闘争の段階に突入していけないことはなかった。しかし残念ながら分会全体を考えた場合には、その方向はかなり無理があった。つまり日放労全国単産の枠の中で、中央指導のもとで闘って勝てるのではないかという幻想がかなりの部分にあったために、ここではあえて組合レベルの闘いを追求することを闘争委員会としても決定したのである。

  2 分会選挙の勝利
 8月15日、中央局人事委員会が開かれ、その後中央局での団交がくり返される中で、19日には経営の方から最終回答として「一週間の赴任延期だけを認めよう」という回答にならない回答が出された。このとき、九州支部ははやくもこの回答をぶらさげて長崎分会に説得にやってきた。しかし長崎分会は、職場大会で第一次の最終回答を満場一致で蹴ることに成功した。

 その後、8月22日には九州支部分会長会議が聞かれた。その分会長会議には、佐世保闘争の経験を生かして不当配置闘争の中でつくられた全九州の間う部隊が熊本(九州支部がある)へ集結し、傍聴動員をかちとる中で分会長会議で「全国化に向けて闘うこと」を決議させ、続いて発令延期をとりつけることにも成功した。

 長崎分会は、この闘争の初期の段階で組合レベルでの闘いの方向を見出すことに成功したといえる。こうなってくると、九州支部もうかつに取引を表面に出したりするわけにはいかない。また経営の方も、発令延期が労働協約として成立しているため強行突破をはかることはできない。その中で合法的にこの闘いの圧殺の場として設定されたのが、9月10日の分会選挙であった。この9月10日の分会役員選はすさまじい闘いであった。7年半前までは、組合すらあってなきが如くで、ホワイトカラーの「胸板薄きインテリ組合」と悪口をいわれていた日放労の選挙としては、想像を絶するものであった。

 分会選挙では、日頃職制と完全に一体化した部分が執行委員会の三役に立候補してきた。むこうの攻撃の焦点は長崎分会内の反戦青年委員会だった。しかもそのバックには職制と支部、組合中央が資金的にも闘争指導においても明らかに介在する形で分会選挙が展開された。そのすさまじさは、投票日の前日の長崎の飲み屋という飲み屋は長崎分会選挙のオルグでいっぱいだったといわれる位である。「鈴木は暴力的共産主義者である。彼に分会長をまかせるととんでもないことになる。奴はみんなにゲバ棒をもてと必ずいってくるにちがいない」というような低次元の論議から「実は総評でも反戦青年委を切ろうとしているのだ」という議論まで織りまぜながら、9月10日の投票日まで長崎分会の鈴木氏をはじめ闘う仲間も全力をかけたし、日放労中央も職制側も全力をかけた形でなだれこんだ。

 結果は、闘う部分の完全な勝利に終わった。昨年、鈴木氏は7票差で委員長に選出されたのが、今年は13票差とさらに水をあけて堂々たる圧勝である。その晩東京の本部で前田義則〔NHK会長〕以下の緊急理事会が招集されるという事態にもみられるように、経営に対して長崎分会の労働者は反撃の保塁を築いたのである。長崎分会の闘う労働者は転勤が内示されていつ東京に飛ぶかわからない、そのような男を向こう1年の分会長に選び抜いたのだ。しかし、この攻撃の本質が明らかに「反戦」つぶしであり闘う拠点崩しである以上、たとえここで経営が一撃をくらっ
たとしても、彼らが配転命令をひっこめるというようなことはあるはずはなかった。

  3 右翼社民指導部による攻勢
 分会選挙から一週間たった後、九州支部からオルグ団が10名やってきた。しかし、長崎分会書記局は、オルグ団が団結をかためるためにやってくるのではなくて、きり崩しにやってくることを最初から見抜いていた。そこでオルグ団を分会書記局に釘づけにし、オルグ日程の4日間、分会書記局で徹夜の論議をたたかわせた。4日間の中で、書記局はこの段階にいたっても日放労中央機関紙に長崎分会の闘いを一行も載せないこと、また彼らが「もう闘いは終わりなんだ」と闘争放棄を宣言してはばからないことを徹底的に糾弾した。そして彼らが「次は法廷闘争だ」ということに対しても頑強に抵抗した。共産党系の組合活動家が配転をくらった場合、法廷闘争が不当配転闘争の基本的なスタイルになる。しかし、法廷闘争はその性格から大衆闘争として展開されない。たとえばカンパをする、または大衆的に「守る会」があったとしても、それは労働者一人ひとりをまきこむ大衆闘争としては展開されないが故に、長崎分会書記局は「法廷闘争の論議はまだ早い、あくまで大衆的実力闘争としていかに全国化するか」ということで論議した。

 このような論議を5日間ぶっ通しでやることによって、オルグ団がオルグに入れない状態をつくることに成功した。とうとう最終日になって彼らは、最後通牒をつきつけてきた。その内容は「長崎分会が九州支部のオルグを認めないならば、今後日放労の中央はこの闘争の支援を打ち切る」というものであった。

 この最後通諜をめぐって、分会闘争委30人余は、闘争はじまって以来最初の重い討論を徹夜で続けた。闘争委は「日放労中央はこの闘争を支援してくれなくても結構である。われわれは日放労中央がここで闘わないといっても、全国で支えてくれる労働者は必ずいることを確信する」という結論を出した。これによってさらに発令延期をとりつけながら28日の九州支部大会まで、この闘いは大衆闘争としてもちこたえていった。

 9月28日、九州支部大会には再び傍聴動員が九州の各分会の闘う仲間によびかけられた。この頃には、傍聴動員に加わる数は続々と広がっていた。この支部大会であらためて九州支部は長崎分会とともに闘うことを決議した。だが、このあたりが組合レベルの闘いの頂点であった。

 10月にはいって7、8、9日の三日間、日放労定期大会が開かれ、この大会では長崎問題が最大の焦点として争われた。最大の焦点になった理由は、はじめに述べた如く、配転闘争はこれまで恥辱の歴史であった。それが長崎の闘いによって、それをくつがえして勝利の闘いを導くかもしれないという可能性を秘めていたことが第一である。第二には、日放労は上田哲〔委員長〕の「哲の規律」という言葉があるように、分会が互いに横の連絡をとりあうことも、東京から長崎へ、長崎から東京へ直接当該する分会同士が連絡をとりあうことも統制処分の対象となるような組合だったが、そういう統制の中で闘いが孤立化され、分断させられながらどうやら中央大会まで闘いが持続したまま、もちこんでしまったという安保坂後日放労の歴史の中で唯一の闘いであったためである。この中でも議論の中心は、やはり反戦青年委・全学連問題であった。ただし議論のレベルは非常に低い。たとえば10・8の新宿闘争が議長によって「私は、昨夜大会が終わって新宿で一杯飲んだ。すると外が騒がしいので、出てみたらやっぱり全学連・反戦青年委が暴れていた。NHKに働く私たちはああはなるまい」と集約されてしまう。

 しかし、その日放労の中でも全学連・反戦青年委の闘いや、長崎の闘いを少なくとも理解できる部分が指導部の世代の交代という形で出てきていた。とくに安保以後苦しい状況の中で労働運動をやろうと決意した者は、組合主義的な限界をもちながらも、昨年の10・8〔羽田闘争〕以降の反戦闘争の影響を深刻にうけていた。大会でも長崎問題で反戦が圧倒的に孤立させられ、ぶったたかれた後、社青同協会派と思われる部分から「反戦闘争に関しては安易な街頭主義を排して、職場からのエネルギーを基礎に闘う」という修正案が出された。日放労中央は全面的に賛成し、採決抜きでとりいれようとしたところ、代議員から反対がでて採決せざるをえなくなり、採決の結果は賛成105、反対98、保留70で明らかに現在の反戦青年委の闘いを悪意をもってあてつけた決議が否決されてしまったことにもそれはみることができる。

 しかし、残念ながら長崎の闘いは日放労全体の理解をかちとることができずに、中央大会では全国化されず敗退し、それ以後は長崎の地におしこめられたまま続けざるをえなくなった。

 この頃から長崎分会の中で、中央・支部と一体化した、いわゆる脱退組の活動が活発化してくる。この脱退組の内訳は、ニュース関係の記者と係長の連合だった。脱退組は九州支部と公然と結びつき、しかも職制にバックアップされながら長崎分会からの脱退を企てた。しかし長崎分会は100人中脱退を25人にくいとめることに成功した。脱退組も必死のオルグをかけて、係長クラスは深刻な動揺にみまわれ、年齢層が高くなればなるほどその動揺は激しかった。長崎分会は係長クラスまでも真っ二つに分けながら、脱退組を25人にとどめる中で闘いは続けられた。

 しかし以後その脱退組は、長崎分会の闘いを孤立させ分断させる上で、次のように有効に使われた。それは日放労全国大会後、10月19日に地労委がもたれようとした時である。その19日の地労委のあっせんを目前にひかえた18日から19日の朝にかけて、九州支部は次のような陰謀をおこなった。つまり九州支部は分会長会議を急拠招集し、その中に長崎分会の脱退組の中心である係長を出席させ、長崎分会が日頃いかに反戦に毒されているか、全学連シンパであるかを述べさせ、長崎分会執行部への非難決議と同時に、不当配転闘争打ちきりを宣言した。しかし長崎分会は、その数時間後ただちに職場大会を闘いて50対10という圧倒的な差で、「分会長会議の結論には承服しかねる」という決議でもって打ちかえし、地労委に臨んだ(地労委はすでに経営側と打ち合わせ通りに動きあっせんに応じる構えなどなく、長崎分会も事情説明に行っただけで、地労委は不調に終わった)。

 この段階で、長崎分会は重大な決意を追られた。つまり8月13日からはじまった組合の合法ルートを通じての闘いを追求し、追求し尽くした後の結論が、卑劣な脱退がでっちあげられ地労委の直前での闘争放棄宣言であった中で、以後の闘いはより高いものへと浮揚せざるをえなくなった。何故なら、10月19日地労委のあっせんが終わった段階では、長崎分会の闘いを組合のレベルで支えるものはなにもなくなってしまったからである。発令延期もこの時点で終わりである。ただ一つ残されているのは闘いを続けるという長崎分会の決意だけであった。

  4 実力闘争への進展
 長崎分会は経営側が21日に強行発令を狙っていると予測して、19日急拠、長崎分会闘争委20数人はバスを借り切って熊本へのりこんだ。20日の日曜日、ガランとした熊本の局内を守衛室の前をすり抜けハチマキをしめながら、静かに書記局へむかい、会議室に座りこんだ。その会議室で4日間にわたって座りこみを続け日放労中央が闘いを継続するのを要求し、〔九州〕支部の反労働者的裏切りを暴露しつづけた。この長崎分会闘争委の会議室座りこみに対して、日放労中央は退去命令を出し、職制は処分をちらつかせたが、長崎分会の労働者はひるまなかった。

 こうして4日間の座りこみによって、長崎分会の闘いは発令延期を危機一髪のところでかちとって、次に臨時九州支部大会を迎えた。

 10月28日の支部大会では、30日におこなわれる最高人事委員会(労働協約上最後の場)を前にして、地労委の直前にうらぎりをやったと同じように、再び九州支部は、反戦、全学連、べ平連攻撃に終始することによって、長崎分会の除名ないし制裁決議をおこなった。長崎分会のメンバーは一斉にその場を退場し、直ちに「長崎の不当配転、闘争を続ける会」を各分会に組織し、翌朝からビラまきをすることによって一種の二重権力状態をつくりだすことに成功した。

 それに支えられながら、長崎分会は発令はもはや時間の問題となったため、30日第2回の熊本のりこみを敢行した。その時には熊本県評が提供してくれた大型の宣伝カーに、書記局活動に必要なガリ版やスリ紙、メガホンなどの道具や寝泊りに必要なものをすべて積みこんで「動く核基地エンタープライズ」をもじって「動く書記局と称する宣伝カーを熊本中央放送局と九州支部の目と鼻の先の中庭に停車させて活動を開始した。

 長崎分会は佐世保闘争の時にとった闘争戦術と同じように全員が休暇をとり、いつでも現地に行ける体制をくみ、しかも現地に行った部分が途中で帰ってきて報告会を開き、また多くの人たちをひきつれて現地へもどる方式をとった。長崎分会第一陣20数名、そして各分会から同じくらいの数が結集しNHK〔熊本」中央局へむかっての包囲デモを敢行した。さらに31日に日放労中央が長崎分会に対する統制違反を明言し、協会側[NHK〕が辞令を発令してくるや、そこに結集していた労働者たちは中央局のロビーを占拠し館内デモをくまなく展開し職制をみつけるとそれをとりかこんでうず巻きデモをおこなった。そして支部書記局に対する激しい抗議デモに
驚いた支部書記局は自らバリケードを築いて閉じこもり、支部執行委クラスは飯も食わずにトイレにも行かずに閉じこもってしまった。

 そのかん分会の闘う労働者が館内を圧倒して、くまなくデモを展開する、食堂にも、スタジオのすれすれまでも、ロビーや廊下も全部デモをやり抜く。それに対して職制側は、ピケをはってくる。しかしそのピケも労働者のデモによって打ち破られてしまう。労働者の怒りはこの日爆発した。消火器までもち出しガラス窓を破って書記局へ突入しようとする者までも、ホワイトカラーといわれるNHK労働者から出てきたのである。

 この中央局館内の激しいデモによって、九州支部の枠内に従ってきた熊本分会の300人の中にも一挙に流動状況がつくりだされ、熊本分会の労働者は館内デモを展開した労働者との連帯を表すために労働時間内に職制からの弾圧を覚悟して合同集会をかちとった。

 この熊本分会との連帯集会をかちとる中で、熊本に結集した労働者は、発令時の熊本での行動を終え、ただちに各地にひきあげ、長崎分会の労働者は長崎の地域の闘いに帰った。局面は、内示段階から10月31日発令された段階で、現実に勝つために何か必要かという秒読みの段階にはいっていた。

 11月2日から5日まで、長崎分会の闘いは非常に孤立した重い闘いだった。ただ一つ東京のマスコミ反戦に結集する労働者のNHK本館に対するデモに勇気づけられながら、このかん長崎では局長室前座りこみとか、1日3回の館内デモ、勤務時間内に全員がゼッケンをつけるなどの抗議行動をおこなった。

 すでにこの局面で日放労中央は長崎分会を分派よばわりし、「長崎分会が流す文書はすべて組織外の行動である」というキャンペーンを連日おこなっていた。そしてこの段階ではじめて職制が前面に出て来た。11月7日、長崎分会が11・7闘争をくんでいることを知りながら、あえて挑発的に鈴本分会長をはじめ闘争委の主力メンバー7人の大量処分(鈴本分会長停職4カ月、あと2カ月、1ヵ月)をかけてきた。処分の理由は職場大会の場の激しいやりとりで、こづいた・こづかないかという問題だけであった。それを彼らは「職場秩序を紊(びん)乱した」という理由で、しかも職場大会にいなかった者まで処分をかけてくるという、東大闘争の誤認処分と同じ誤認処分をかけてきた。

 そのような状況の中で11・7闘争は闘われた。一言でいえば孤立した主力部隊の正面突破の闘いであった。闘いは、長崎地域の反戦青年委・べ平連、長崎大学の全学連の学生とともにくまれた。長崎分会の闘いは、最初の日から90日間、組合の合法ルートを通じての闘いであった。しかし、組合が完全に裏切り者であることが全分会員に大衆的に暴露され、納得され尽くした瞬間に、闘いは反戦青年委、全学連の人たちと長崎分会全部が一致して共にスクラムを組み、激しいデモができるところまで進んだ。

 7日夜、NHKの〔長崎〕局包囲デモにおいて40、50歳のおじさんたちが、20そこそこの全学連のヘルメット姿の学生と一緒にスクラムを組んで、喜々としてデモをする姿は感動的であった。

 11・7闘争で、長崎分会は反戦青年委員会などの外からの支援行動に対して「その職場に反戦があるその労働組合」としていかなる行動をとるべきかを真剣に考えた。そして次のような行動がとられた。長崎分会は、局外においては、全学連・反戦の人たちと共にスクラムをくみデモをくりひろげ、館内では立ち入り自由な長崎分会の労働者が館内デモをくりひろげ、職制をみつければうず巻きデモでとりかこみ、何度も何度も局長室に団交を要求する激しい抗議デモがくり返された。

  5 圧殺の武器=総評
 この闘いに対し機動隊が導入され、12人が不当逮捕された。しかし、その後の長崎地域の労働運動は爆発的な高揚をつくりだした。長崎反戦が媒介となりながら長崎地区労、長崎県評が日放労の圧力をはねのけて、11月15日には千名をこえる労働者を結集し、NHKを包囲し、警察署を包囲して激しい抗議行動を展開した。また長崎地区反戦の労働者は、長崎造船・県職・全逓・全電通などの拠点職場をはじめさまざまな職場に一斉にビラ入れをおこない、べ平連の人たちは街頭カンパをおこなった。この街頭カンパでは、あの佐世保で全学連がえたカンパ額よりはるかに多いカンパが寄せられ、この闘争に対する支援の大きさを表していた。
                                            
 この11・7闘争以降の闘いの高揚に対して、日放労中央は「不当配転闘争はともかくとして、機動隊が放送局に導入されたことにはやっぱり反対せざるをえないだろう」と19日に30分ストをおこなった。しかしこれは、安保闘争における6・4スト(注68)にも似た、闘いの高揚を既成の秩序の中に収拾をはかっていく狙いであった。その証拠には、スト権の集約もなかった違法ストにもかかわらず処分もこない、これは完全に裏で取引している証拠である。そういうイカサマ・ストで、全国の日放労の仲間が注目し機動隊導入に対してあげた怒りの声を、日放労中央の手で収拾する狙いであった。

 そして、さらに30ストをうった同19日、上田哲委員長と総評・岩井事務局長の間で取引がなされ、日放労中央・上田哲と岡村総評組織部長が長崎に乗りこんできた。

 焦点は、この闘いを最初から最後まで一貫して支えた長崎地区労・県評を総評がこの闘いから引き離すことに成功するか、長崎分会の闘いを支援して闘い続けるかであった。このかん長崎地区労・県評では、まさに70年を先取りするような形で幹事会委員会で激しい議論が闘わされていた。全国単産から長崎の各労働組合にむかって「長崎分会の闘いを支援するな」という文書がおりる。その中でJC路線が登場し、日共路線が登場し、社会党の中のあらゆる潮流が噴出する中で長崎地区労・県評の幹部は、佐世保闘争を闘い抜いた力で長崎分会の闘いを守り抜いて闘ってきた。

 長崎地区労・県評の主張は次のようなものであった。現在の総評系の組合は、とくに民間の組合がなだれをうって崩れつつある。その中で全国単産がたての系列で全く闘いを圧殺する役割を果たしている。それを地域の具体的な政治闘争(長崎では佐世保闘争が典型的であった)を通じていかに脱皮していくかである。したがって、長崎分会の闘いもそういう一つの政治闘争として設定し、彼らなりに長崎分会の支援を自分たちの問題として考えていた。たとえば、日放労の長崎分会見放しに対して、県評も見放してしまうのであれば、70年にむかう長崎の労働組合運動はすべて中央からの圧殺によっておしつぶされてしまう。それは、まがりなりにも総評の運動を地域においてとくに政治闘争で支えている地区労・県評の崩壊を意味する。そういう危機感を感じながら、長崎地区労・県評は最後まで長崎分会の闘いを支援し続けたのである。

 しかし21日最終局面では、総評・岩井事務局長の450万の力にはついに勝てずに、長崎地区労・県評は長崎分会の闘いの支援を打ち切らざるをえないという意向の表明がなされ、岩井意見書が長崎分会につきつけられてきた。長崎分会も、結果からいえばこの岩井意見書に屈服せざるをえなかった。

 岩井意見書の内容は次の三つである。
@今後予想される弾圧、経営側の処分に対しては総評をバックに日放労と地区労・県評で合 同の弾圧対策委員会を設ける。
A鈴本分会長は配転に応じ、不当配転闘争を一切打ち切る。また法廷闘争もしない。
B長崎分会を戒告処分にとどめる。

 これはあっせん案というものではなかった。21日夜、徹夜で長崎分会では呑むか呑まないか重苦しい討論が続いた。このあっせん案の犯罪性は誰にとっても明らかであった。しかし、地区労・県評からも引き離され、全国化への展望も全くつかめず、しかも権力からの大量弾圧を前にして、長崎分会は残念ながら屈服を強いられることとなった。こうして長崎分会の百日余の不当配転闘争は終息の局面を迎えるに至った。

 最後に残されているのは12月13日の日放労臨時全国大会である。この全国大会では、70年にからむ一切の問題がこの場で噴出しようとしている。反戦青年委の評価、地区労・県評などのいわゆる地域共闘の問題もすべて提出されるであろう。その中ですでに、社・共統一戦線という形で70年闘争の裏切りを開始した部分と、反戦青年委と全学連を中心にしながら労働者の大衆的実力闘争として貫徹していこうとする部隊との激しい対決が予想されている。

 長崎分会の闘いは、日放労全国の仲間に大きな衝撃を与えている。日放労20年の歴史の中で、今ほど執行部不信が公然と語られ、公然と統制処分を覚悟でビラまきが続けられていることはない。つまり組合中央の支配が、この10日ほど完全に崩壊しながら中央大会を迎えようとしているのだ。長崎分会は、この中央大会にも、不当配転闘争の最後のヤマ場を設定してとりくみを続けている。

 6 闘争を貫いた思想と行動形態
 百余日にわたる日放労長崎分会の闘争は、一言でいえば放送労働者の闘いではなく、労働者の闘いであったということができる。現在の労働運動の中で、自分たちの職場の機能のようなものを頭にかぶせて「その運動を」という危険な傾向がでてきている。たとえば日放労では、一時放送労働者ということが盛んに言われ(現在では日放労中央は放送労働者という言葉すら運動方針から消して文化集団という言葉を使い始めている)、そのうちに「放送」に力点がおかれ出す。「われわれはデモに行くことよりも、いい放送を出すことが任務だ」という論議が横行してくる。したがって、労働運動とのかかわりあい方が非常に切り縮められた形で設定されている。たとえば、日放労の運動方針の中のどういう形態で「地域の労働運動に参加すべきか」という頁は「集会がもたれる時に、技術の人は集会の照明係としてあるいはマイクのセットの係として参加すべきであり、プロデューサーは演出をすべきである。だから文化集団である」となる。ここまで進んでいる。

 長崎分会は、日放労中央が言うように労働運動にすら日頃の疎外された労働の延長としてしかかかわりえないとすれば、放送労働者の運動自体も死に絶えてしまうだろうことをはっきりとらえ、放送労働者の「放送」に力点を置いた運動ではなく「労働者」に力点を置いた運動を追求してきた。鈴木委員長の登場は、そうした体質に長崎分会を変えたものであった。

 長崎分会では、昨年〔67年〕鈴木委員長をはじめ左派の執行部が成立した。それまでは、組合があるのかないのかわからない状態で、年2回のベーア〔ベースアップ〕闘争がせいぜいであった。その中で鈴木氏は「すべての不満を組合へ」というスローガンで組合選挙に打って出て6票差で委員長に選出された。「すべての不満を組合へ」というスローガンは、労働運動を下からの生きたものにするために掲げられた。長崎分会という一つの職場を労働者の力によって、労働者に少しでも息のしやすいものにする。少なくとも、その中でいばっているのは労働者であり、職制などは少さくなっている。そういう
職場をつくりあげるのが狙いであった。

 そうしたイメージのもとに長崎分会でおこなわれた運動は、形としては民青の人たちがやるようないわゆる「諸要求運動」を一時的にはとった。そこでは、ほんのささいなことまでとりあげられた。しかし、一方では民青ではやれない運動が諸要求運動の中でおこなわれている。たとえば、「マージヤン卓をよとせ」という闘争がおこなわれた。職制が「娯楽室に囲碁と将棋は置いてもいいけれどマージャン卓を置くのは困る。これは頽廃した遊びである」と言うのに対して「いやそうではない。遊びに区別はないはずだ」という議論を大真面目で展開する。3〜4時間の激しい団交をやって、しかも獲得目標は「二卓であるかで一卓であるか」という大衆討論までやりながらおこなわれた。

『朝日ジャーナル』で紹介されている「バケツ闘争」などもその一つである。「バケツ闘争」で、『朝日ジャーナル』でふれられていない大事な点は、あのバケツをとったのはス100時間に及ぶ団交の結果であり、その団交も一般にいう「おしゃべりではないことである。長崎分会の労働者は、そこではじめて労働者の力=実力闘争の意義に気がついたのである。

 長崎では水飢饉で困っていた。「すべての不満を組合へ」ということで組合員から「何とかしてくれ」と問題が組合にもちこまれた。労働者たちは水飢饉に対抗して二千円もする大きなバケツを四個も五個も買って家計に大赤字をつくっていた。そこで組合で何とかしようというので、団交がおこなわれた。組合側は「われわれは好きこのんで長崎にいるわけではない。経営の責任においてわれわれを長崎に住まわせているのだから経営がバケツ代を払うべきだ」と団交で主張し協約をかちとった。

 しかし経営側は協約廃棄をしてきた。経営側が協約を廃棄した時に分会の労働者がどういう闘争戦術をもっているかといえば、一つの分会はスト権の集約権ももっていないし、処分権ももっていない。実力闘争をやるといっても、形の上ではなにも持っていない。そういう中で長崎分会の労働者は、就業規則・労働協約・労働基準法・労働組合法などを学習会で研究し尽くし、労働協約の中に「団交に出席するメンバーは、特別に業務にさしつかえない限り、人数を制限しない」という協約を見つけ、それを逆手にとって闘いを始めた。当時長崎分会は三池の職場闘争に学んで100人の分会のうち30人の闘争委員を組織していた。その30人の闘争委員を団交に出席させるために、団交待機中ということで全部現場から引き上げてしまう。そうすると現場は大混乱に陥って番組がすっ飛んでしまった。

 この闘いは大きな力を発揮した。たとえばベーア闘争の中でストライキを打ったところで一、二時間の時限ストしか打てない。実際に番組はすっ飛ばない、日放労運動史上番組がすっ飛ぶ闘いは、戦争直後読売争議への支援ストの中でおこなわれた以外一回もないといっていい位である。そういう中で日放労の労働者は、実力闘争のイメージを失いかけている。抗議はできたとしても、労働者の力で職制支酉をtち抜き、支配帯碑鯛つ右府していく実力闘争の思想でストライキを打っているところはほとんどない。

 しかし長崎分会はそれをやった。記者会見への取材がどんどんふっ飛ばされる。経営側は仕方がないので管理者が記者会見の取材に行く、帰って来て組合員が筆を入れるというおもしろい状態がつくりだされる。カメラマンも取材に行かない。したがって写真も撮れない。そういうニュースは全部字しかでない。

 この闘いの中で、長崎分会の労働者は日頃番組をすっ飛ばすなどということはどえらいことだと感じていたのが実は当たり前のことで、なんでもないことになってきた。つまり、この「バケツ闘争」の中で、長崎分解の労働者は、番組までぶっ飛ばす闘いで経営側が見る見るうちに崩れるのをまざまざと見た。団交で何時間費やそうと、団交技術ををどんなに駆使しようと、全く崩れない経営側が、ニュース一発であっという間に崩れていくのを目の前にした時に、長崎分会の労働者は、労働者の力はどういう形で発揮されなければならないかを知り、実力闘争ということを実感をこめてうけとめられるようになったのである。

 そうした視点から長崎分会の労働者は、それ以後の日常闘争を日常的実力闘争としてさまざまな形で展開してきた。36協定などは年中無協約状態である。現在でも長崎分会では2カ月半にわたって36協定が結ばれていない。労働者は全く根をあげない。「早く帰れて結構だ。番組など出ようが出まいがかまわない」と平然と語る。放送局というのは一般に非常に時間外労働が長く、いくらでも時間外命令ができるところであるが、長崎分会は時間外労働の総枠が日本一短い分会である。それは昨年36協定を廃棄する日常闘争の中で長崎分会では労働者の日々の労働は何であるかという議論を常にくりひろげてきた。それは36の問題であったし、とくに休暇の問題であった。

 放送局では休暇一つとれるような状況ではない。「休暇をとるよりも、放送労働者として使命感に燃えて取材に出た方がよい」という論理が優先してしまう。その中で、日々の労働は所詮疎外された労働である。どんなにいい番組をつくりたいと思っているプロデューサーであろうと、どんなにすばらしい特種をとりたいと思っている記者であろうと、資本主義社会の中で労働している限り、賃金という形で日々の生活を送っている限り、賃金労働者であるし、疎外された8時間であることが具体的に展開された。

 そうした賃金労働者の原則的・階級的思想が、半年以上にわたる三六協定拒否闘争、休暇闘争の徹底的展開とその中での討論がかちとられていった。そして番組さえもふっ飛ばせば力になるということで、労働者の武器として使い始めるところまで闘いを高めることに成功したのである。

 7 エンプラ阻止への質的飛躍
しかし長崎分会の指導者は、こういう闘いを続けているだけでは何かが不足していると感じざるをえなかった。たしかに反幹部にはなるかもしれない。しかし分会労働者が組合の枠をこえて階級として形成されるためには何かがたりない、そういうことが議論されている中で、あの67年の10・8羽田闘争を迎えたのである。

 山崎博昭君が虐殺された10・8羽田闘争は長崎分会にものすごいショックを与えた。長崎分会では前日に討論集会を開き、首相官邸にむけて抗議電報が打たれただけであった。長崎分会の労働者は何をしていたのか、闘う分会をつくるといいながら10・8羽田闘争に電報一本しか打てなかったわれわれ労働者は何であったかが反省された。そして「山崎君を殺したのは、われわれ労働者である」を合言葉に「われわれはあの全学連の闘いを断固支持する。そしてわれわれ労働者が闘わない限り、あのような行動を批判する資格はない」という分会声明を発表した。これは分会内で大変な議論となった。毎日毎日、それこそ職場を放っぽらかして、上を下への大討論集会の場となった。その中で、それまで自分が一番左翼だと思って『赤旗』配りを自慢にしていたある共産党のシンパの人は、分会闘争委の宣言にケチをつけたために闘争委の人に「共産党なんかいまや右翼の代名詞だ」と批判され、カンカンになって怒り闘争委に反発しはじめた。しかし、反発すればするほど職制派に転落し、ついに脱走組の急先鋒となってしまった。

 そして三回にわたって夜11時半までティーチイン〔構内討論集会〕が開かれ、その中で10・8羽田闘争の衝撃を労働者としていかにうけとめるかという議論が真剣にくりひろげられた。この討論集会では分会の年齢構成からいえば18〜19歳から54〜55歳まで含まれているため、年寄りの連中からは戦争の話が出ると期せずして太平洋戦争従軍記がでてくる。「ジャワに行って何人殺した」と自慢話をする。それをみんなで批判すると、そこで自己批判がだされ、戦争責任の問題がでてくる。

 長崎分会は徹底した議論の末、10・8闘争から10・21闘争までに反戦闘争を設定することができた。そして昨年〔六七年〕の10・21国際反戦統一行動日には、分会の現業者を除く9割近い人たちがデモに参加し、その中からNHK長崎反戦青年委が結成された。このNHK長崎反戦青年委が最初に迎えた試練が、あの佐世保エンタープライズ阻止闘争であった。

 今でこそ反戦青年委も全学連も市民権をかちとっているとはいえ、1月の段階では九州全体が戒厳状態になっている中で九州の労働者にとって重苦しいものであった。しかし、長崎分会の労働者は全学連の諸君とともに佐世保で闘う決意を固めた。NHK長崎反戦青年委が中心となって一月一日元旦に「エンタープライズがはいってくる長崎に正月はない」ということでデモを敢行した。そして長崎地区反戦の再建をエンタープライズ入港の数日前にかちとり、長崎分会は反戦または地区労としてデモに参加していった。

 その中で議論されたことは、「われわれは取材に行くべきか、デモに行くべきか」という問題だった。長崎分会の指導部は、必ずしも最終的に全部がデモに行けという形で徹底するわけではない。その労働者のおかれている状況、場の判断はそれなりに重要になってくる。しかし、あのエンタープライズが佐世保にはいってくるという重大な攻撃を前にして、長崎分会の労働者は完全に体制の武器になってしまっているNHKの中でその報道の一歯車に動員されていくのではなくて、あえてそれを拒絶して、つまりカメラももたず、ペンももたず、そしてデンスケ〔放送取材用録音機〕もかつがないで無名の労働者としてデモに行くことを選択し、決意することをとおして、分会の労働者は階級の一員として自覚することができたのである。

〔一月〕21日には、長崎分会はほとんど空っぽになった。当日はベーア闘争のストライキがおこなわれたが、ストライキをやったのは保安要員の人たちで、その他は全員佐世保に行っていた。

 この佐世保闘争では、長崎分会は休暇闘争をフルに使った。1月元旦から休暇闘争の準備にはいり、エンタープライズがいつ佐世保に入港してもその時はすでに佐世保にいられるように、そして闘う労働者の戦闘部隊としていられるように、ヘルメットを買いこみ、旗もそろえて待ちうけた。その休暇闘争の展開のされ方も、分会執行部が一括して休暇を届け出るような闘い方ではない。それは経営側から後でひっかけられないようにという戦術的配慮からだけではなくて、そこでも一人一人の労働者の闘いの場を佐世保へ行くために休暇をとるかとらないかに設定したのである。結果としては、もっとも強い人たちは、一、二回職制とけんかをやって取ってしまう。そしてもっともぐらぐらしていた人も、明日エンタープライズが入港するという時点ではじめて休暇をとり終えた。そして分会の半分以上、のべにして60〜70人が第1回の5万人集会(18日)、第2回の2万人集会(21日)に参加し、しかもその多くが反戦青年委のメンバーとして参加しながら、全学連の学生とのあつい連帯をかちとっている。

 長崎分会の中でどういう形で佐世保闘争の総括がおこなわれたかといえば、一つは佐世保闘争に反戦としてあるいは地区労のデモ隊として参加する中でかちとった全学連とのあつい連帯を、どのように自分の中で今後継承していくかという問題である。二言でいえば反戦青年委の強化の方向である。もう一つは、放送労働者として番組をもう一度考え直そうということであった。長崎分会では、それ以後、NHKの犯罪性の暴露の団交を開始した。大衆的にその団交ができたのはその時からである。それ以前にも何度となくNHKの犯罪性を暴露する団交は行われていた。とくにエンタープライズ入港に際しては10日程前から、「NHKはどういう姿勢でエンタープライズの入港をとりあげようとしているのか、まちがっても、戦争反対と賛成の立場をたして二で割るようなことはしないだろうな」という形で団交をおこなっていた。

 佐世保闘争の最中にも、「われわれのデモを何故映さなかった」ということで団交をやっている。あるいは警察の警備訓練が映されようとした瞬間にはニュースデスクのまわりをヘルメットをかぶった部隊がとりまく実力闘争でそのニュース番組をつぶしている。

 8 階級意識とはなにか
佐世保闘争の後、ニュースにたずさわっているあるカメラマンは自分が実際デモに参加した感想として「今まで自分がとってきたものはまちがいであった。デモを映す場合でも、自分はとんでもないところから映していた」ということをもらしはじめる。その点では、記者も同じだった。その中ではじめて大衆的に現在のマスコミなり、自分の書いた記事なり、とったフィルムなりを対象化し、一回それを否定するところに自分たちの放送なり、番組をみていく姿勢が出できた。長崎分会はこの闘いを通じて放送の内容をめぐる団交権を死守し続けている。

 日放労中央も、佐世保闘争の後、長崎分会が団交を通じてNHKの実態を暴露し、それが『社会新報』などですっぱ抜かれるのに触発されてか、団交をやろうとした。しかし、団交を当局側に申し込んだところ「団交では困ります。話し合いならよい」と返事されて、「では話し合いにしよう」と、自民党の労政路線である「団交でなくて話しあいへ」「団交でなくて苦情処理委員会へ」という路線にのっかってしまい、団交権をいとも簡単に放棄してしまった。団交と話しあいとは、月とスッポンの差がある。長崎分会は、佐世保闘争に参加する中で、現在のマスコミの犯罪性を暴露する場として団交がいかに有効であるかを知っていたが故に、36協定を廃棄し、無協約状態をつくりながら団交権を死守してきた。

 長崎分会の労働者は、放送労働者から労働者へという中で、賃金労働者としての自分を再発見していった。そうして、そういう視点を貫くことによってはじめて全戦線の中での放送労働者としての特殊な任務も担えるのだということを知ったのである。つまり、階級闘争の重要な局面では、デモの参加者を一人でも多くするために、ペンをすてカメラをすててデモに行くことを覚悟しなければならない。逆に言うなら、ヘルメットをかぶり警棒に身をさらす決意をもった時にはじめて、たとえば一人の優秀なカメラマンが、記者が、プロデューサーが、まさに彼の表現の世界での闘いに進みうる。

 こうした蓄積をもつ長崎分会の労働者は、不当配転阻止闘争の中で、何を獲得しただろうか。長崎分会の人々は、闘争中の日大に書かれた歌「われわれば何を獲得したのか、それはバリケードと自己変革」をまさに長崎分会の労働者の歌だという。

 長崎分会の闘いの中で、定年間近の50代の労働者までが「自分の首をかけて闘おう」ということを、大見栄切っていうのではなくポツリともらす。また分会指導部が逮捕されて全部いなくなった時に、今まで指導部でなかった人が一気に指導部に成長し、11月7日以降の戦いを支えている。あるいは、長崎のNHKの中の未組織の労働者=バイトで雇われている女性たちが、長崎分会の闘いに触発されてついに起ちあがり、創意性のある闘いをおこなった。彼女たちは「職制と裏切り者には口もきかない、笑顔も見せない」闘いをやり、そして分会指導部が逮捕されるのを聞くや、彼女たち単独で警察署にむかってデモを敢行するまでにいたったのである。

 こうした事実はNHKというホワイトカラーのサラリーマンであり地方社会ではエリートとされている中から、三池のあの労働者と変わらない、あるいは三菱のあの灼熱の中で溶接をして働いている労働者と変らない闘う労働者として、長崎分会の労働者が蘇生し自己変革をとげてきたことを示している。闘いの中で自らが変革されない闘いは、その闘いがインチキである証拠である。

 日大生がかかげた「古田〔日大総長〕を倒せ、古田を殺せ」というスローガンはまさに長崎労働者と同じものである。「古田を殺せ」というスローガンの前に、「殺す」というのはどうも、とたじろぐものであれば、それはやはり「胸板薄き」インテリを脱していないだろう。労働者が闘いを決意し起ちあがったならば、当然そこまで行く。長崎分会の闘いも、九州支部の書記局に激しく押しかけて行く時に、あるいはオルグ団を迎えての時に、そうした局面を迎えた。最後の最後まで闘いを進めて行くならば、自分たちの闘いに対する正当性、確信以外に展望をきりひらくものはない。「展望があるから闘いをやる」といっている限り闘えないことを、長崎分会の労働者は獲得してきている。

 最後に、こうした長崎分会の闘いがいかに可能になったかを明らかにしておかなければならない。それは反戦青年委員会の存在である。長崎分会の労働者全体が、最後の局面では組合のレベルでの闘争手段を奪われ、全学連とか反戦とかと全く同一レベルで、あるいは追い越す形で鋭い闘いを組みえた中に、NHK長崎反戦青年委の存在をはっきりみることができる。それは第一に、反戦が闘いの中で一人一人にオルグを して数を増したというようなものではない。そうではなくて、闘いのあらゆる局面で自分たちが許さないといったら許さないことを行動で貫徹する。そうしなければ戦いを裏切るものが生まれてくることを、その中でつかみとったのである。

 第二には、勝たなければならないということである。とにかくやりました、では闘争ではないという姿勢であった。この二つが闘いのあらゆる困難地点で闘いを支えた。九州支部がもう闘わない、といった時も、それをつき破って孤立しても闘い抜く決意を固められたらは、この二つの思想であり、それを提起して全体を獲得していったのは分会反戦である。

 長崎分会では、この闘いを通じて反戦のメンバーが数として全体になったということはなくても、分会員全体が反戦委のその思想を自分のものにすることができたといえる。そのような中ではじめて「総評をのりこえる」ということも現実的に語られる。闘争委員の47歳の集金係のある労働者が、逮捕されて出てきてまた闘うぞと思っていたところ、総評が出て来て闘いをつぶしてしまった。その時その労働者はくやしまぎれに、真実をこめて「総評なんてやろうがでてきたから、われわれは負けてしまった。総評なんていうのはない方がよっぽどいいんだ」と言った。その言葉はその時の分会労働者全体の気持ちを正直にあらわしている。

 そういう中で、はじめてのりこえるものは反戦であることが痛感されている。しかもその反戦は、まず思想として確立され、そしてそれが闘いのあらゆる局面において日常闘争にまでも実力闘争の思想を展開できるものでなくてはならない。そしてある場合には、あらゆる労働運動のさまざまな問題までも実力闘争として指導できる反戦になっていく必要がある。そのためには街頭で、反戦自身が徹底的にきたえられる必要があると同時に、労働者大衆の深部に反戦がくいこんで、反戦の思想で労働者大衆全体を獲得する闘いに入らなければならない。

 長崎分会は、総評のあっせん案に屈したとはいえ、百余日にわたる不当配転阻止闘争を闘い抜いたその教訓を蓄積しつつ、その闘争体制をさらに強化しつつ、70年安保闘争へむかって日本労働運動の拠点をめざして闘いに入っている。われわれは、ここに日本労働運動の新しい再生の芽を見ることができよう。
 年表 68年
1 配転という名の攻撃と闘いの姿勢
8月13日 不当配転阻止闘争
 本社転勤の配転攻撃が分会長である鈴木達夫氏と反戦青年委の事務局長・久能氏
8月14日 翌日から一斉に職場討議にはいり、すべての職場で二人の転勤は不当であるという決議、不当配転撤回が分会全体で確認された。同時に、長崎地区労・県評、反戦青年委員会、べ平連などとの地域共闘の結成も同じ14日に行われた。

2 分会選挙の勝利
8月15日 長崎分会は、長崎の地域共闘の力をバックにして、中央局人事委員会で闘いをはじめた。
8月19日 経営の最終回答として「一週間の赴任延期だけを認めよう」という回答に
       九州支部この回答をぶらさげて長崎分会に説得にやってきた。しかし長崎分会は、職場大会で第一次の最終回答を満場一致で蹴る。

8月22日 九州支部分会長会議 
  分会長会議で「全国化に向けて闘うこと」を決議させ、発令延期をとりつける

9月10日 分会役員選はすさまじい闘いであった。
  闘う部分の完全な勝利。昨年、鈴木氏は7票差で委員長に選出されたのが、今年は13票差とさらに水をあけて堂々たる圧勝

3 右翼社民指導部による攻勢
9月17日 九州支部からオルグ団が10名。きり崩しに。オルグ団を分会書記局に釘づけにし、オルグ日程の4日間、分会書記局で徹夜の論議。最後通牒をつきつけてきた。「長崎分会が九州支部のオルグを認めないならば、今後日放労の中央はこの闘争の支援を打ち切る」

 分会闘争委30人余は、最初の重い徹夜の討論。闘争委は「日放労中央はこの闘争を支援してくれなくても結構である。われわれは日放労中央がここで闘わないといっても、全国で支えてくれる労働者は必ずいることを確信する」という結論を出した。これによってさらに発令延期をとりつけながら28日の九州支部大会まで、この闘いは大衆闘争としてもちこたえていった。

9月28日、九州支部大会には再び傍聴動員が九州の各分会の闘う仲間によびかけられた。この支部大会であらためて九州支部は長崎分会とともに闘うことを決議した。だが、このあたりが組合レベルの闘いの頂点であった。

10月にはいって7、8、9日の三日間、日放労定期大会が開かれ、この大会では長崎問題が最大の焦点として争われた。最大の焦点になった理由は、これまで恥辱の歴史であった。それが長崎の闘いによって、それをくつがえして勝利の闘いを導くかもしれないという可能性を秘めていたことが第一である。

 第二には、日放労は上田哲〔委員長〕の「哲の規律」という言葉があるように、分会が互いに横の連絡をとりあうことも、東京から長崎へ、長崎から東京へ直接当該する分会同士が連絡をとりあうことも統制処分の対象となるような組合だったが、そういう統制の中で闘いが孤立化され、分断させられながらどうやら中央大会まで闘いが持続したまま、もちこんでしまったという安保以降、日放労の歴史の中で唯一の闘いであったためである。この中でも議論の中心は、やはり反戦青年委・全学連問題
 残念ながら長崎の闘いは日放労全体の理解をかちとることができずに、中央大会では全国化されず敗退し、それ以後は長崎の地におしこめられたまま続けざるをえなくなった。
 この頃から長崎分会の中で、中央・支部と一体化した、いわゆる脱退組の活動が活発化。しかし以後その脱退組は、長崎分会の闘いを孤立させ分断させる上で、次のように有効に使われた。それは日放労全国大会後、

10月19日 地労委がもたれようとした時である。その19日の地労委のあっせんを目前にひかえた18日から19日の朝にかけて、九州支部は次のような陰謀をおこなった。つまり九州支部は分会長会議を急拠招集し、その中に長崎分会の脱退組の中心である係長を出席させ、長崎分会が日頃いかに反戦に毒されているか、全学連シンパであるかを述べさせ、長崎分会執行部への非難決議と同時に、不当配転闘争打ちきりを宣言した。しかし長崎分会は、その数時間後ただちに職場大会を闘いて50対10という圧倒的な差で、「分会長会議の結論には承服しかねる」という決議でもって打ちかえし、

この段階で、長崎分会は重大な決意を追られた。つまり8月13日からはじまった組合の合法ルートを通じての闘いを追求し、追求し尽くした後の結論が、卑劣な脱退がでっちあげられ地労委の直前での闘争放棄宣言であった中で、以後の闘いはより高いものへと浮揚せざるをえなくなった。

10月19日 地労委のあっせんが終わった段階では、長崎分会の闘いを組合のレベルで支えるものはなにもなくなってしまった、発令延期もこの時点で終わりである。
ただ一つ残されているのは闘いを続けるという長崎分会の決意だけであった。

  4 実力闘争への進展
10月19日 長崎分会は経営側が21日に強行発令を狙っていると予測して、急拠、長崎分会闘争委20数人はバスを借り切って熊本へのりこんだ。
10月20日 日曜日、ガランとした熊本の局内を守衛室の前をすり抜けハチマキをしめながら、静かに書記局へむかい、会議室に座りこんだ。その会議室で4日間にわたって座りこみを続け日放労中央が闘いを継続するのを要求し、〔九州〕支部の反労働者的裏切りを暴露しつづけた。この長崎分会闘争委の会議室座りこみに対して、日放労中央は退去命令を出し、職制は処分をちらつかせたが、長崎分会の労働者はひるまなかった。
 こうして4日間の座りこみによって、長崎分会の闘いは発令延期を危機一髪のところでかちとって、次に臨時九州支部大会を迎えた。

 それに支えられながら、長崎分会は発令はもはや時間の問題となったため、30日第2回の熊本のりこみを敢行した。その時には熊本県評が提供してくれた大型の宣伝カーに、書記局活動に必要なガリ版やスリ紙、メガホンなどの道具や寝泊りに必要なものをすべて積みこんで「動く核基地エンタープライズ」をもじって「動く書記局と称する宣伝カーを熊本中央放送局と九州支部の目と鼻の先の中庭に停車させて活動を開始した。

 長崎分会第一陣20数名、そして各分会から同じくらいの数が結集しNHK〔熊本」中央局へむかっての包囲デモを敢行。

10月31日 日放労中央が長崎分会に対する統制違反を明言し、協会側[NHK〕が辞令を発令してくるや、そこに結集していた労働者たちは中央局のロビーを占拠し館内デモをくまなく展開し職制をみつけるとそれをとりかこんでうず巻きデモをおこなった。そして支部書記局に対する激しい抗議デモに驚いた支部書記局は自らバリケードを築いて閉じこもり、支部執行委クラスは飯も食わずにトイレにも行かずに閉じこもってしまった。

 この中央局館内の激しいデモによって、九州支部の枠内に従ってきた熊本分会の300人の中にも一挙に流動状況がつくりだされ、熊本分会の労働者は館内デモを展開した労働者との連帯を表すために労働時間内に職制からの弾圧を覚悟して合同集会をかちとった。

 この熊本分会との連帯集会をかちとる中で、熊本に結集した労働者は、発令時の熊本での行動を終え、ただちに各地にひきあげ、長崎分会の労働者は長崎の地域の闘いに帰った。局面は、内示段階から10月31日発令された段階で、現実に勝つために何か必要かという秒読みの段階にはいっていた。

11月2日〜5日 東京のマスコミ反戦に結集する労働者のNHK本館に対するデモに勇気づけられながら、このかん長崎では局長室前座りこみとか、1日3回の館内デモ、勤務時間内に全員がゼッケンをつけるなどの抗議行動。

 すでにこの局面で日放労中央は長崎分会を分派よばわりし、「長崎分会が流す文書はすべて組織外の行動である」というキャンペーンを連日おこなっていた。そしてこの段階ではじめて職制が前面に出て来た。

11月7日 長崎分会が11・7闘争をくんでいることを知りながら、あえて挑発的に鈴本分会長をはじめ闘争委の主力メンバー7人の大量処分(鈴本分会長停職4カ月、あと2カ月、1ヵ月)

 そのような状況の中で11・7闘争は闘われた。一言でいえば孤立した主力部隊の正面突破の闘いであった。闘いは、長崎地域の反戦青年委・べ平連、長崎大学の全学連の学生とともにくまれた。
 7日夜、NHKの〔長崎〕局包囲デモにおいて40、50歳のおじさんたちが、20そこそこの全学連のヘルメット姿の学生と一緒にスクラムを組んで、喜々としてデモをする姿は感動的であった。

 11・7闘争で、長崎分会は反戦青年委員会などの外からの支援行動に対して「その職場に反戦があるその労働組合」としていかなる行動をとるべきかを真剣に考えた。そして次のような行動がとられた。長崎分会は、局外においては、全学連・反戦の人たちと共にスクラムをくみデモをくりひろげ、館内では立ち入り自由な長崎分会の労働者が館内デモをくりひろげ、職制をみつければうず巻きデモでとりかこみ、何度も何度も局長室に団交を要求する激しい抗議デモがくり返された。

  5 圧殺の武器=総評
この闘いに対し機動隊が導入され、12人が不当逮捕された。
しかし、その後の長崎地域の労働運動は爆発的な高揚をつくりだした。

11月15日 長崎反戦が媒介となりながら長崎地区労、長崎県評が日放労の圧力をはねのけて、11月15日には千名をこえる労働者を結集し、NHKを包囲し、警察署を包囲して激しい抗議行動を展開した。また長崎地区反戦の労働者は、長崎造船・県職・全逓・全電通などの拠点職場をはじめさまざまな職場に一斉にビラ入れをおこない、べ平連の人たちは街頭カンパをおこなった。この街頭カンパでは、あの佐世保で全学連がえたカンパ額よりはるかに多いカンパが寄せられ、この闘争に対する支援の大きさを表していた。                                         

11月19日 上田哲委員長と総評・岩井事務局長の間で取引がなされ、日放労中央・ 上田哲と岡村総評組織部長が長崎に乗りこんできた。全国単産から長崎の各労働組合にむかって「長崎分会の闘いを支援するな」という文書

11月21日 最終局面では、総評・岩井事務局長の450万の力にはついに勝てずに、長崎地区労・県評は長崎分会の闘いの支援を打ち切らざるをえないという意向の表明がなされ、岩井意見書が長崎分会につきつけられてきた。これはあっせん案というものではなかった。徹夜で呑むか呑まないか重苦しい討論が続いた。このあっせん案の犯罪性は誰にとっても明らかであった。しかし、地区労・県評からも引き離され、全国化への展望も全くつかめず、しかも権力からの大量弾圧を前にして、長崎分会は残念ながら屈服を強いられることとなった。こうして長崎分会の百日余の不当配転闘争は終息の局面を迎えるに至った。
動労千葉を支援する会のホームページから転載


1月14日(火)
《都知事選出馬へ》 鈴木達夫氏 記者会見・フルバージョン


昼食は豚シャブと塩麹キムチ漬け鶏肉 市販の浅漬け 納豆
昼食後、「前進」の読み合わせ 昨日の連帯行動-渋谷ビデオと韓国民主労総ゼネストのビデオを観て、トウジェン!
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夕食は鶏ゴボウ鍋。ゴボー・大根・人参はピーラーで薄く ス労自主物販のニシン
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