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2014年日誌
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世界の労働者と団結し、戦争と民営化の道を許すな! 今こそ闘う労働組合を全国の職場に
11・2全国労働者総決起集会への賛同と参加のお願い


http://www.geocities.jp/nov_rally/2014/yobikake2014.htm

全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部
全国金属機械労働組合港合同
国鉄千葉動力車労働組合
動労千葉鉄建公団訴訟について最高裁の争点をまとめた資料です ↓
各地での国鉄集会で配布・活用してください。
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11月2日(日)全国労働者総決起集会カラオケ・ビデオ 8/21
例によって、やっつけ仕事で粗いですが、お許しを!
と思っていたら、「分かりやすい・おぼえやすい」なんて大好評!

10月31日(金)
今日、NPO法人「街」に対しての第三者機関の監査が来た。
第三者委員会でちょっと良いのは、すき家 第三者委員会。最悪なのは原子力規制委員会
第三者機関に「街」の昔を知ってもらいたくて、18年前の文章をあげた。↓
ハネやん作・ 久良木さんのホームページから転載

久良木さん「全国・出会いの旅」へ出発!

「よう、マツク、あばよ」「街ニュース」170号(1996年9月9日)

 

マックとの付き合いが始まったのは8月初めである。あっという間にひと月が経ってしまった。還暦をとうの昔に迎えたというのに、こんな若い女性としとねを共にしようとは、夢か現か幻か。      

 マックの一日は、早出のハマちゃんを迎えるところから始まる。追っかけるように現れるリカちゃんを二階の休憩室へと先導し、ミキちゃんが赤ちゃんを乳児院に預けて足早にやってくると尻尾をちぎれんばかりに振って歓迎する。次々と出勤するメンバーやスタッフ一人ひとりに喜びを表し、迎えられた人々もマックに声をかけ笑顔を向ける。同じ命あるものとして心が通い安らぎを覚え、しかもお互いにさほど負担とならない関係、そこが実にいい。  

 作業所のメンバーやスタッフ、そしてリサイクル品を求めて来店するお客さんだけではない。店とは目と鼻の先にある駅前で、ベンチに座って人通りをぼんやり眺めていると、通りがかりの人達が、幼な子から若者、年配の人にいたるまでマックに声をかけてくれる。仕事帰りの人達がマックの姿に目をとめた時、疲れのにじんだ顔に一瞬精気が蘇り、ふっと安堵の顔を浮かべる。マックが“街”や地域の人々にとって、これほどかけがえのない存在になっているとは、まるでしらなかった。                       ごめんよ、マック。 

 人類はマックのはるか昔のご先祖の頃からよきパートナーとしての付き合いを始め、最近では“アニマル・セラピー”としての役割が日本でも注目されてきた。しかしマックの存在は、心病める人々にとって、また格別の意味を持っている。昔ニーチェという、おいちゃんがいて「諸君犬を見たまえ」と言い残した。マックは、聞いたことがあるかな。

 犬は昨日のことをくやんだり、明日のことをくよくよ心配したりはしない。きょう生きることに精一杯だ。そして他の犬にどう見られているかなど、およそ気にする気配はない。人間も少しは見習えというわけだ。日本の偉い坊さんも同じようなことを言っている。

 人間はだれでも狂気を抱えて生きている。それがふくらんだとき病いとなるんだが、その境い目は、いまここに生きる実感を見失っていないかどうか、そのへんにあるようだ。他人との関わりの中で感じる不満や不安が、過去・未来と行きつ戻りつしながら肥大化する。次第に現実感を失ったとき、不眠や妄想、幻聴などに悩まされる。こりゃ、マック聞いてるか。

 リサイクルショップ“街”が共同作業所になったのはこの4月で、まだ半年も経っていない。解決すべき課題はいろいろあるようだが、メンバーにとってすばらしい作業所となっているのに驚いた。個性豊かなメンバーが、実にうまく作業所を利用している。アカギくんは昼食作りに腕をふるい、ナベちゃんはリサイクル品の運搬に精を出す。時々姿を見せるオカサーファーのカワサキくんは本棚整理の魔術師だ。とびっきり感性豊かなミッちゃんとユリちゃん、いつも笑みを絶やさぬオイマツさんはお客サンが丹念にかき回してくれた衣類の山を手際よく折りたたむ。人生経験豊かなトミタさんはメンバーにとって心強い話し相手で、パーカッション(打楽器)の名手ムラマツさんともども、そのたくましい腕力は家具や電化製品を移動するのに欠かせない。神出鬼没の(他の福祉作業所に通っている)ミヤちゃんは商店街の人気者で、祭りや大売出しなど地域の最新情報をせっせと運ぶ。好奇心旺盛なイデさんは、人の話を聞くのが実にうまい。そしてマックを毎日散歩に連れ出し、食事に気を使っているのはミヤウチさんだ。

 聞くところによると、メンバーの通所率は平均70%。ほとんどの人が病院の外来やクリニックに通っているが、一人旅に出かけたり、別のアルバイトに挑戦したり、次第に自分の暮らしの幅を広げているようだ。そして体調がかんばしくないときは気がねなく休む。「街」はメンバーにとって「自分の都合に合わせて利用する場所」であり、「通わなければならない場所」ではない。それでいて、いや、それだからこそ都内の作業所でも有数の高い通所率を示している。そしてマックの通所率は100 %。 

 所長のノリコさん、ナオコさん、クーちゃん、“街”を切り盛りしているスタッフがこれまたすごい。天性の素直さなのだろうか、そろいもそろって三人とも、メンバーや回りの人達の話にじっくり耳を傾け、よく学ぶ。学ぶだけではない、よく遊ぶ。そして手に余るものについては、あっさり諦めるいさぎよさ。かくしてしなやかに、したたかに作業所を軌道に乗せ、メンバーにとって何でも話せる存在となっている。

中でも流れを見つめながらじっと待つノリコさん、多少のしぶきにはビクともせず、じっと待つ。メンバーやスタッフの可能性、秘めた活力を信頼しきっているからこそなしうるのだろう。うんマックもそう思うか。

 休憩のひととき、ボランティアの方達とお茶を飲みおやつをいただいていると50年前の光景が鮮やかに蘇る。昔、日本の精神障害者は1900年に制定された「精神病者監護法」のもとで、悲惨な境遇に置かれていた。家族が自宅で監置することを義務づけられていたからである。近所のおにいちゃんは、屋敷の日の当たらない座敷牢に閉じ込められ、少し離れたところに住むおねえちゃんは裏庭にあるトリ小屋のような囲いの中に閉じ込められていた。 

 日本が戦争に敗れ、戦後の混乱期で警察の目が行き届かなくなったとき、おにいちゃんやおねえちゃんを家族がそっと外に出しはじめた。最初は遠まきに見ていた近所の子どもたちも、慣れるのに時間はかからなかった。ひと月もしないうちに、おねえちゃんが意味不明の歌を歌いながら村中を歩くのについて回ったり、おにいちゃんといっしょに裏山でシラサギの卵を取るのに夢中になったりした。 

  近所のおばあちゃんが、縁側で針仕事をしながら、おにいちゃんやおねえちゃんにおやつをすすめる。とりたてて会話がはずむわけではないが、おだやかな心休まるひと時、これこそ究極のケアなのかもしれない。しかし、おにいちゃんやおねえちゃんの幸せは永続きしなかった。1950年に「精神衛生法」が施行され、やがて少し離れた丘の上に立つ民間精神病院へ収容された。その後、二人の姿を見た人はだれもいない。    うん、マックどうした。

 “リサイクルショップ街”は単なる作業所ではない。地域の人々が行き交うオープンスペースである。“街”の入口から呼び掛ければ聞こえる距離に“関町ケアネットワーク”がある。“街”のメンバーの休憩室と物置を兼ねているが、ここも地域の人々に開かれた「たまり場」となっている。窓のすぐ下を流れる石神井川の川面に街の明りが映えるころになると、病院勤務を終えたフカワさん、サガさんが日替りで現れる。訪れた人々の話しを聞き、電話口で相談にのるためだ。

 きわめつきは、“リサイクルショップ街”から歩いて3分、西武新宿線南口商店街にある沖縄料理店・“チャンプルー街”である。バンダナが似合うおやっさん、それがハネやんだ。入り口の階段に行列ができることはめったにないが、それでも開店して日が浅いというのに老若男女で賑わう。店内には沖縄からの便りや、イベントの案内が所狭しと張られ、レジのわきには“街”の新聞や各地の作業所のニュースが置かれている。  
 毎日曜日、店の休みを利用して開かれる“サンデー夕食会”はすっかり定着した。いつも20人を越す賑わいで、“街”のメンバーだけでなく地域に住む心病める人達、心優しき人達にとってだいじな集いとなっている。     

 “リサイクルショップ街”を軸に、“関町ケアネットワーク”、“チャンプルー街”の営みは、いま精神障害者にとって必要な地域ケアは何かを鮮明に示している。この営みの中から、マキノさん達の“練馬コンシューマーズクラブ(NCC)”という当事者のグループも誕生した。

 いまハネやんは“チャンプルー街”という地域の人々の交差点にどっしり腰を据えて地域を見つめ、パソコンも駆使してメッセージを発信しつづけている。共同住居という最も大きなテーマに取り組む日も、そう遠くはないだろう。ありゃマック、寝ちまった。

 マックとのお別れの日がやってきた。東京練馬は武蔵関の街を離れ、いよいよ西へ向けて立つ。おかげですっかり充電できた。何年かかるか定かでなく、何を求めて歩くのか自分でも判然としない。昨日のことや明日のことを、くよくよ考えたりするゆとりなど、望むべくもない放浪の旅である。であればこそ、病める心をいやしてくれるだろうと願うばかりである。

 マックを連れて行こうかと、何度か悩んだ。しかし、四国の砂浜で海を眺めながらグーグー腹をならしている姿とか、能登半島あたりの駅前で空き缶を前にして坐り込んでいる様子とか、どういうわけか、そういうイメージしかわいてこない。それじゃマックがあまりにも可哀想だし、だいいち“街”の人たちに叱られちまう。だから連れて行くのはあきらめた。そろそろマックもいい男を見つけろ。その時はノリコさんに相談するがいい。男を見る目はしっかりしてるようだから。いつの日かマックの元気な子ども達に会える日を楽しみにしている。じゃぁマック、達者でな。あばよ。

*******************
9月9日、ついに久良木さんが全国行脚の旅に出発します。Good Luck!   

久良木基金の発足とお願い

 9月9日、久良木さんがいよいよ『出会いの旅』に出発します。9日夜、新宿の屋台で盛大な壮行会をしたあと夜行バスに乗り大阪へ出て、そこから船で沖縄へ。沖縄の地から、「何年かかるか定かでない」全国遊説の旅が始まります。

私が勝手に考えますには、この旅には三つの意味があると思います。

一つ目は、久良木さん自身の「人生の総決算」、
二つ目は、いわゆる「精神障害者」(当事者)の解放に向けた基盤づくりのための遊説、
三つ目は、当事者だけでなくすべての人たちの人間的な解放という壮大な展望を切り開く旅。

 以上の観点に立った時、今日から始まる『旅』は、私たち一人ひとりの旅でもあります。この旅の重さを久良木さん一人に背負わせることはできません。久良木さんに快適で充実した旅を続けていただく為にも、「能登半島あたりの駅前で空き缶を前に坐って」もらわない為にも、『久良木基金』を発足させ、久良木さんと「同行二人」したいと思いますので、ご協力をお願いします。
 

「日本全国・出会いの旅」その2  週刊「街ニュース」第199号(1996年12月25日発行)より

よう、マック、元気か

 すっかりごぶさたしてしまったが、元気にしているか、マック。     
9月に東京を出発してから大阪で2カ月、福岡で1カ月余り過ごしているうちに、あっという間に年の瀬を迎えてしまった。この後いよいよ念願の沖繩へ向かい、新年は南国の砂浜で迎えることになりそうだ。旅は予期した以上に実りある日々の積み重ねで、多くの方々に支えられながら楽しく歩いている。    

 いうまでもなく「基金」に寄せられた多くの人々のご好意と励ましはなによりも心強い。おかげで今のところ「空き缶」のお世話になる(*編者注。駅前で空き缶を置いて募金を求めることもなく過ごしている。皆さんに心からの感謝の気持ちを伝えてほしい。         

 大阪、福岡で出会った人は、すでに500人を越してしまった。見学、会合、資料蒐集などが目白押しで、けっこうハードな旅になっている。時には「こんなはずじゃなかったのに」と勝手な思いがよぎることもあるが、貴重な出会いや新たな発見で得られる充実感はなにものにもかえがたい。                  
 旅が始まったばかりだというのに、収穫は溢れんばかりで、いささか消化に手間取っているというのが実情である。きょうは、大阪、福岡で訪問したりした主なところを書き記そう。リュックの中を整理するいい機会でもある。                                 マック、まあ気楽に聞いとくれ。

 大阪の巻  福岡の巻

□見学・訪問先
▲釜か崎高齢日雇労働者の仕事と生活をかちとる会(西成区)
▲釜か崎医療連絡会(西成区)
▲阪南病院(堺市・釜か崎在住入院患者の見舞)
▲大和川病院(柏原市・事件現場)
▲大阪精神医療人権センター(北区)
▲光愛病院(高槻市・病棟と患者会)
▲さわらび診療所(吹田市)
▲共同作業所トータスハウス(生野区)
▲解放出版社(浪速区)
▲大阪府環境保健部(中央区・資料蒐集)
▲浅香山病院(堺市・デイケア) 
□参加した集いなど
▲釜か崎三角公園炊き出し(西成区)
▲日本病院地域精神医学会総会(中央区)
▲野宿者集会(西成区・津守公園)
▲大阪精神医療人権センター事務局会議(吹田市)
▲大阪精神障害者連絡会交流会(中央区)
▲大和川病院事件裁判(北区・大阪地裁)
□歩いた所
▲天満商店街周辺(北区)
▲釜か崎・通天閣周辺(西成区)
▲大阪城公園(中央区)
▲ミナミ道頓堀周辺(浪速区)

□見学・訪問先
▲福岡県精神障害者家族会連絡会(小倉北区)
▲八幡西共同作業所(八幡西区)
▲八幡厚生病院(八幡西区・病棟とデイケア)  
▲北九州市精神科診療所協会月例会(小倉北区)
▲若松区地域ケアネットワーク月例会(若松区)
▲精神障害者家族・社会復帰施設職員研修会(早良区)

▲くるめ出逢いの会懇談会(久留米市)
▲障害者の日・出会いとふれあいのつどい(久留米市)
▲久留米大学附属病院精神科デイケア懇談会(久留米市)
▲アドバンスセンターメンバー懇談会(田川市)
□歩いた所
▲小倉城周辺・日過市場・小倉港(小倉北区)
▲若松港・千畳敷海岸(若松区)
▲香椎宮周辺(八幡東区)
▲中州周辺(博多区)
▲梅苑・水天宮(久留米市)
▲三池炭鉱周辺(大牟田市)
▲田川炭鉱跡(田川市)
               はいお疲れさま、マック  

ずーっと背負ってきた「残務整理」も、間もなく「日加交流報告書第4部」が完成して、一区切りがつく。人間の生きざまというのは、なるべくシンプルなのがよいとつくづく思う。東京の住居を引き払って旅に出たのも、一つにはその思いがあったのだから。沖縄に着いたらもっとゆったりした旅になるだろうと期待している。北九州の仲間からは「そげんうまかこつ、いくとね」と冷やかされたが、断じて実現するつもりだ。でなきゃたまらんと。

 デイケアのこと、作業所のこと、クリニックのこと、寄せ場や野宿者のことなど山積しているテーマについては、ぼちぼち書いていく。そういうわけで、いい新年を迎えてくれ。

「街」や「基金」の皆さんにはくれぐれもよろしく伝えてほしい。そして「関町」の皆さんにも。      
                                                       じゃぁマック、またな。

  マック、デイゴの花が咲きはじめた

 日本全国『出会いの旅』に出ている久良木さんから、久しぶりにファックスが届きました。大阪から九州に行き12月に沖繩に渡ったところでバッタリと音信不通になり……“チャンプルー街”で三線教室を教えているナミちゃんが1月沖繩へ行った時に泊った民宿で偶然彼に出会ったとか、宮古島へ渡ったとかの未確認情報はあったが……。ともかく久良木さんの最新情報を掲載します。


 緋寒桜の季節が終り、八重山諸島のほうからは早くも県花とされている「デイゴ」の花便りが届きはじめた。例年より10日ほど早いそうだ。那覇の街には初夏の香りが漂い、道行く人々の足取りも日増しに軽やかになっていく。

 ハネやんやノリコさんお奨めの公設市場にも早速出かけてみた。あふれんばかりの活気は想像をはるかにこえていた。店頭にでーんと並ぶ豚肉や牛肉の塊り、いかにも新鮮ないままで見たこともない魚の数々、ゴーヤーはいうにおよばず名も知らぬ野菜の豊富さには驚くばかり。

 そして衣類や雑貨にいたるまで大小の店が延々と軒を連ねる。第二次大戦で焼土と化した沖繩では人々の暮らしの営みは公設市場から始まった。廃墟の中から人々が自然に集り、日々の糧を求め合ったのだろう。公設市場は県内の主要都市では、どこでも見ることができる。ネコ車に大きなトマトを山積みにしたおばさんが、カマボコ屋と菓子屋の境い目あたりに車を止めて、いきなり商いを始めた。早速常連らしいおばあちゃんと、にぎやかにウチナーグチのおしゃべりに熱中する。

 いつの間にどこから現れたのか、すぐ足もとにマックの同類が鎖もつけないで悠然と座っている。マックの二倍くらいはあろうか、その風格たるやただものではない。マックのパートナーとしてどうだろうかと身をかがめてのぞこうとしたら、ウーッとうなりながらこちらをにらんでどこかへ行ってしまった。                      残念、マック

 戦争は沖繩の人々の4人に1人というおびただしい数の命を奪っただけでなく、大量の精神病者を生み出した。戦後米軍統治時代の調査によると、戦前は本土並みだった人口当たりの病者数が、ほぼ2倍の水準に達していたそうだ。その名残りだろうか最大の激戦地となった沖繩本島南部では、いまも病者数が多い。精神病院に収容されている人々は県全体で5600人にのぼり、地域ケアもきわめて乏しい。しかしここ数年、まったく新しい風が吹きはじめている場面に県内の各地で出会った。沖繩の空のように透明で、身の弾む思いにかられる風である。

沖縄本島から船で10時間ほど離れた南の宮古島で、この1月末「コンシューマーズ交流会イン宮古」という画期的な集いが開かれた。当事者を中心に家族、スタッフ、ボランティアの人達が500 人、県内各地から集まったのである。「セルフヘルプ活動を強化して支援ネットワークを拡大しよう」というテーマで、4人の当事者が体験を発表するシンポジウムがあり、夜には盛大な懇談会が開かれた。各地のさまざまなグループが次々に登場し、歌ありコミックあり、その芸達者ぶりには、もう参った参った。     

 人口127 万人の沖縄で500 人の当事者達が集う、これがどれほど大変なことか。人口62万人の練馬区に置きかえてイメージしてほしい。しかも北端の伊平屋島から南端の波照間島まで、およそ600 キロ、東京から国道沿いに南下してゆうに大阪に達する距離である。マックが走りづめに走っても1カ月はかかるだろう。ちょろちょろ道草しようものなら、何年かかることやら。 こりゃ、マック、どこへ行く  

 那覇市に「メンバーズクラブふれあいの会」という会がある。発足してから2年余り、ここでいう「メンバーズ」 はクラブのメンバーという意味で、当事者はじめ家族やスタッフ、ボランティアなど誰でも自由に参加できる。会の規約などは今のところなにもない。                

 この会の集いが毎週金曜日夜の7時から9時まで保健所を借りて開かれる。いつも30~40人ぐらい集り、すでに100 回を数えた。毎回テーマを決め5~6グループに分れて自由に話し合う。その結果を各グループの代表が発表した後、自己紹介を兼ねて1人ひとりその日の感想や近況などを語るわけだが、和気あいあいとした雰囲気が実にいい。            

 会が毎週発行するニュースは、メンバーを結ぶ絆になっているだけでなく、那覇市はじめ県内の精神保健に関する動きを伝えていて、各地の活動の励みともなっているようだ。会が発足して間もない1995年9月、「有限会社ふれあい工場」を設立、代表取締役には通院中の当事者のひとりが就任した。主な事業種目は蜂蜜や牛乳、天然塩、無農薬野菜など健康食品の販売で、その他清掃の請負、公共施設での喫茶レストランの受託経営など着々と事業を拡大している。職親制度を巧みに利用したりして「最低賃金」並みの賃金確保を図っており、これはもうれっきとした就労の場である。

 那覇港に近いバスターミナルの目の前に4階建てのビルが立つ。その一階に「ふれあい工場」の店舗があるわけだが、会は二階から四階までの大半を当事者のためのアパートとして借り上げている。各階7戸ずつ合計21戸のうち1戸は一般の人が借りていて、17戸をアパートとして利用、2戸は離島から那覇に出てくる人達が寝泊まりする部屋として提供し、1戸はアパートの住人や「ふれあい工場」の人達の憩いの場となっている。各戸とも2DKバストイレつきで、所帯持ちでも住める広さである。家賃は月3万3000円、生活保護の住宅扶助が上限3万2000円だから、なんともうらやましい。会はさらに共同作業所もスタートさせた。まだ補助金を受けるにいたっていないが、蜂蜜の巣箱づくりが主な作業となっている。よし、マック、聞いてるな

 マック、もう気づいただろうか。
まず当事者を中心に一般市民も含めた「ふれあいの会」があって、それをベースに地域ケアの施設づくりを進める。この姿こそ東京でなしえていない、そして“街”グループが模索している姿である。

 那覇を追うように八重山諸島の石垣島でも、「いこいの家」をつくる動きが始まった。当事者を中心に家族、スタッフ、一般市民が気楽に憩う場としてつくり、その交流の中で地域の特性に見合った当事者のニーズに応える施設づくりを手がけるという。これは県内にある病院経営のグループホームや入所授産施設、家族会経営の共同作業所といったこれまでの施設づくりとはまったく異なった新しい波である。          
     
 マック、すごい予感がする。精神保健改革のうねりは沖縄から起こるのではないかという予感だ。「当事者中心」「当事者の声を反映して」と掛け声だけが空回りする東京からは起こりえない。過酷な歴史にもかかわらず、美しい自然の中で息吹く豊かな琉球文化に病者ならではの感性が予兆を嗅ぎつけたとだけとりあえず言っておこう。              

 そういうわけで、4月初めまで沖縄の地を歩き続けることとした。北九州ですっかり世話になった西さんの娘さんから『出会いの旅』は「双六の旅」だと笑われた。振り出しに戻ったり、1回休みがあったり。離島への旅は船で行く。波の上を歩いていけるんじゃないかといった妄想にはいまのところとりつかれていないから安心してほしい。
 
『チャンプルー街』の新聞に、マックがこの頃よく家出すると書いてあったが、車にひかれないように気をつけろ。そして道の真ん中にクソするのだけはやめたほうがよいと思う。   
 
 “街”の皆さんと、『出会いの旅』を支援し続けてくださる皆さんにくれぐれもよろしく。じゃあ、またな、マック 
                                                          1997.3.12 那覇にて  

「日本全国・出会いの旅」その4

「街ニュース」第232号(1997年6月18日発行)

「命どぅ宝」だ、マック

 沖縄へ来て、とうとう4カ月も経ってしまった。この間、マックも知っての通り、「コバルト荘」の照屋さん一家にはすっかり世話になった。何かに導かれた出会いとしかいいようがない。

 「沖縄にいると日本が見えてくる」とよくいわれるが、まったくその通りだと思う。沖縄の地がひきつけてやまないのは、豊かな自然だけではなく、人々の心の豊かさである。そしてそれがいま日本で失われつつあるいちばん大切なことと気がつく。

 4月から5月にかけて土地収用特別措置法「改正」という嵐が吹き荒れる中、町や村で抗議する人々の胸には「命どぅ宝」(ぬちどぅたから=命こそ宝)というゼッケンが付けられていた。
ヤマトンチューによってもたらされた沖縄の過酷な歴史は沖縄戦で頂点に達し、多くの尊い命を奪い、人々のつましい暮らしと美しい自然を容赦なく破かいした。しかし自然を畏敬し、人間の命をなによりも尊しとする思いは脈々と生き続け、いやむしろ過酷な歴史の中でその思いを募らせてきたのだろう。

 沖縄は長寿の国だといわれているのに、お年寄りの占める割合(高齢化率)が意外と低い。全国平均が15%に達しているのに沖縄では11%と大幅に下回っている。その年代の人達が沖縄戦で大量に命を奪われたことを反映しているのだが、もう一つ女性が子供を産む数(特殊合計出生率)が1,9人と全国平均の1,4人に比べ高い水準を維持していることも影響している。
カチャーシで知られる通り、琉球の歌と踊りは人々の日常生活に広く深く根付いている。全国どこを探しても見られない光景だ。お年寄りもすこぶる元気で、若者がお年寄りを大切にする姿は実にすがすがしい。そこから響いてくるのは限りない人間讃歌だ。

 マック宛てのこの前の便りで、「精神保健改革のうねりは沖縄から起こるのではないかという予感がする」と書いたと思う。 
覚えているかマック 年老いても、貧しくとも、そして障害があっても、何よりも命が宝だという思い。この思いこそすべての弱者が地域で共に生きていくことを可能にする根っ子である。国によって押しつけられた「精神保健福祉法」のくびきから解き放たれたとき、沖縄の地域社会は、精神障害者をいち早く受け入れるだろう。

 沖縄タイムスの記事をマックも見てくれたことと思う。日本の新聞史上画期的ともいえるこの大型企画は、毎週木曜朝刊に1頁全面を使って、20週にわたって精神障害者のことを書き続けるそうだ。この記事に見られるように、精神障害者の復権を求める動きは、当事者、家族、スタッフだけではなく一般市民の間に確実に広がりつつある。 そうだ、吠えろ、マック 沖縄で学んだことはあまりにも多く、例によって消化に手間取っている。とりあえずリュックの中を整理するために訪問先など主なところを書き記しておこう。

□見学・訪問先 ・島成郎先生宅(北部・本部町)
陽和患者会結成時の陽和病院長。現在は名護市の「メンタルクリニックやんばる」に勤務。

・田場窯元(北部・大宜味村)
沖縄陶芸界の異才。その作品は窯元でしか求めることができない。

・本部記念病院(北部・本部町)
沖縄海洋博の後ホテルを転用した病院。302床。病棟詰所のミーティングでは看護について質の高い質問を受けた。 

・金城窯元(中部・読谷村)          
人間国宝・金城次郎さんの窯元。ここでは生命感に溢れた多くの作品に接することができる。   
 
・共同作業所SFDなごみの会(中部・読谷村)
手すきの紙や漬物、クッキーなどを作っているが、地元特産の紅芋やガジュマルの樹皮を利用した葉書がユニーク。

・米軍嘉手納基地(中部・嘉手納町)      
アジア最大の米空軍基地。ちなみに沖縄県での米軍専用施設の面積は、日本全国の75%を占めている。        

・米軍楚辺通信所(中部・読谷村)       
 極東米軍の中枢的通信施設。知花昌一さんの土地返還闘争で知られる「象のオリ」。

・てるりん館(中部・沖縄市)        
「コザ独立国大統領」を名乗る照屋林助さんの本拠地。三線片手に歌い語る 笑いに満ちた芸は一級品で、偉大な思想家でもある。サトちゃんと二人だけのために、2時間近く演じてくれた。

・琉球大学医学部(中部・西原町)
名嘉幸一先生を訪ねる。学生諸氏とも長時間語り合うことができた。

・沖縄県精神障害者福祉会連合会(南部・南風原町)
会長の山里八重子さんから学んだことは計り知れない。中堅・若手のすぐれたスタッフを擁し、その活動は家族会の枠をはるかに超えている。

・ひめゆりの塔・平和祈念公園・摩文仁ノ丘(南部・糸満市他) 
沖縄戦最大の激戦地に祈りの碑は多い。祈念公園の「平和の礎」は、沖縄の人々だけでなく朝鮮・韓国人、中国人、米兵までも祀っていて、都道府県の慰霊塔の大半が沖縄の人々への哀悼の言葉を欠いているのと対照的である。

・島唄(中部・宜野湾市)
ネーネーズの本拠地となっているライブハウス。古典と新曲との間に隔たりを感じないのが琉球音楽と踊りの特徴でもある。飛び入りの若者二人のエイサーで、会場は一気に盛り上がった。

・沖縄県庁・沖縄県立図書館(南部・那覇市)
戦争で歴史的資料の多くが消滅したが、県史料館を中心に内外からの資料蒐集に力を注ぎ、本格的な県史編纂作業が始まっている。

・ふれあい工場・ふれあいアパート(南部・那覇市)
いずれも「ふれあいの会」をベースに作らたもので、健康食品の販売・名刺印刷などを手がける会社と2DKバス付17戸の借り上げアパート。地域ケアの一つの方向を示唆している。

・宮古保健所(宮古・平良市)        
宮古地方1市5町村を管轄する保健所。月1回のデイケアを実施しているが、「コンシューマーズ交流会イン宮古」を契機に地域ケア充実の方向を模索している。     

・県立宮古病院精神科(宮古・平良市)     
準開放病棟50床。豊富なスタッフを抱えているが、地域ケア施設の不足が悩みの種。

・共同作業所フレンドリッチニューサシバ(宮古・伊良部町)
宮古島から船で15分ほどの伊良部島にする家族会経営の作業所。紙工芸のほか、サトウキビ刈取、町の清掃作業などを請負っている。       
・県立八重山病院精神科(八重山・石垣市)  
八重山地方1市2町で唯一の精神病棟。50床あるが約70%の利用率で、完全開放。

・八重山保健所(八重山・石垣市)       
八重山地方を管轄し、週1回デイケア実施。地域ネットワーク作りにかける期待は大きい。

・八重山精神療養者家族会(八重山・石垣市)  
会長の大浜守哲さんの人間的ぬくもりと傑出した見識・行動力には驚嘆するばかり家族だけでなく、当事者、スタッフとともに「いこいの家」づくりに奔走している。 

□参加した集いなど 
・名護保健所講演会(北部・名護市)      
「当事者のニーズと求めるケア」と題して報告。数日前に決まった会合にもかかわらず、90人もの当事者、家族、スタッフ、行政担当者が集った。

・読谷村ボランティア連続講座(中部・読谷村)
「当事者が抱くボランティアへの期待」と題して報告。20人ほどの参加者が熱心に耳を傾けてくれた。

・野菊の会(家族会)例会(中部・沖縄市)
山里会長のお伴をして参加。当事者やコザ保健所スタッフも交え20人ほどの家族の話を聞く。産業社会の論理がここ沖縄でも当事者・家族のうえにおおいかぶさっているのを感じる。

・コンシューマー交流学習会(中部・沖縄市) 
県総合精神保健センター主催で開かれ280人ほどの当事者、スタッフが参加。「恋愛」「対人関係」「就労」の3分科会に分かれて、熱心な話し合いが行なわれた。

・てるしのワークセンター懇談会(南部・南風原町)
てるしのワークセンターは福祉会連合会が県から委託されて運営している通所授産施設で、本格的なパンの製造販売を行なっている。メンバー・スタッフ20人参加。

・沖縄県精神障害者福祉会連合会懇談会(南部・南風原町)
連合会の年次総会後開かれた懇親会に出席。60人ほどの参加者に沖縄滞在中の謝意と期待の挨拶を行なう。

・サマリア人病院デイケア・患者会交流会(南部・南風原町)
サマリア人病院はクリスチャンのオーナーが経営する精神病院。274床。 誕生したばかりの患者会とデイケア合同の交流会。30人ほど参加して手づくりの料理を食べながら盛り上がる。

・田崎病院デイケア懇談会(南部・那覇市)  
サマリア人病院と同系列の精神病院。248床。20人参加。メンバーが気楽に利用している雰囲気が印象的。

・登校拒否児親の会(南部・那覇市)     
稲田クリニックの一室で開かれた会合ではフリースクールのことが盛んに話し合われていた。わが病の原風景が甦える。

・ふれあいの集い(南部・那覇市)      
毎週金曜夜開かれる「ふれあいの会」の集い。延べ7回出席し、そのつど40人前後の当事者・家族・スタッフ・一般市民とさまざまなテーマで語り合った。         

・沖縄タイムス記者勉強会(南部・那覇市)  
論説委員、社会部、政経部、学芸部、運動部から7人の記者・カメラマンが出席。精神障害者が置かれている状況と改革の方向を中心に3時間のレクチャー。懇談は深夜に及んだ。 

・コンシューマーズ交流会イン宮古(宮古・平良市)
県内各地から500人の当事者・家族・スタッフ・一般市民が参加。「セルフヘルプ活動を強化して支援ネットワークを拡大しよう」というテーマで、当事者4人によるシンポジウムの後、盛大な懇親会。

□歩いた所
・辺土岬、茅打ちバンダ、今帰仁城跡、沖縄記念公園、塩川海岸、万座毛、ムーンビーチ(北部) 
 
・コザ市街(中部)              

・識名園、波の上ビーチ、壺屋、公設市場、国際通り、豊見城公園、琉球ガラス村、喜屋武岬、玉泉洞、奥武島、知念城跡、斎場御嶽(南部)

・前浜ビーチ、人頭税石、砂山ビーチ、池間島、平安名崎、ドイツ文化村、伊良部島通り池(宮古)

・川平湾、竹富島コンドイビーチ(八重山)


 最後になったが、サトちゃんのことについて記しておきたい。すでにサトちゃんが「チャンプルー新聞」(*「街ニュース」のこと)に書いてくれたように、1カ月間、はるばる応援に駆けつけてくれた。

 時にへたり込みそうになったとき、サトちゃんにどれほど助けられたことか。旅の途上日々山積していく膨大な資料の整理だけではない。同じ病者として、交流会や講演会、さまざまな人々や自然との出会いをいっしょに体験してくれたことで、いっそう理解を深めることができた。そしてあのゆったりしたペースと息使い。サトちゃんには沖縄がよく似合う。とりわけ琉球の音楽と言語を理解する感性。「コバルト荘」のおかみさんが驚くほどで、「沖縄に住みなさい」とまでいわれていた。マックからも感謝の気持ちを伝えてほしい。

 いよいよ沖縄を離れる日が来た。昨夜は宿の屋上で一家総出の送別会を開いてくださった。十六夜の月を眺めながら、バーベキューに舌鼓を打ち、ビールで乾杯。そして極上の古酒泡盛。デンバー(アメリカ)から帰省中の姪御さんも加わり、いやがうえにも盛り上がった。
そうそう、忘れてならぬ参加者がもう一匹。ケンというマックの同類である。マックと同じくまぎらわしい名前だが、れっきとしたレディである。そのケンが先月4匹の子犬を産んだ。ありゃりゃ。

 ノリコさんとトミタさんによると、マックにも恋が芽生えている気配があるそうな。おおいに恋すべし。愛すべし。それは生命の輝き、生きる喜び、至上の営みだと思う。 
   

そおーれ、マック

週刊「街ニュース」 第238号 (1997年9月4日発行)

出会いの旅・その5(番外編)

元気か、マック

 関町の夏はとりわけ暑さが厳しかったようだが、マックのことだリサイクルショップ「街」の筋向かいにある木陰で昼寝をしたり、店の裏口の風通しのよい道路で寝そべったりして、うまく切り抜けていることと思う。

 いま、老連美村(注:カナダ)というところで「出会いの旅」の成果を整理しながら執筆に専念する日々を送っている。日加交流でもなにかとお世話になったみどりさんという方のお宅に居候させていただいているわけだが、2匹の猫と3人(匹)暮らしだ。

 猫の名はシロとクロ、4匹いっしょに生まれたうちの2匹でシロがオスでクロがメス。どちらが先に生まれたかは定かでない。実はそれぞれれっきとした本名があるのだが、う--ん、忘れてしまった。シロは薄いチャコールグレー、クロは黒い毛に覆われていて胸元と足先だけが白い。それでみどりさんがいつの間にかシロ、クロと呼ぶようになったらしい。

 そういえばマックの名前の由来を知ってるか。光が丘でバザーかなにかがあつたときにマックはハネやんにもらわれた。その時ちょうど目の前にマクドナルドの看板が立っていた。それでハネやんがマックという女性には似つかわしくない名前をつけたそうだ。  

 千円札に顔が出ている夏目漱石、この人は躁うつ症の大先輩なんだけど「我が輩は猫である」の主人公に最後まで名前をつけなかったくらいだ。どうも人間の大人は動物の名前についてはいい加減なところがあるようだ。    いまさら怒るな、マック

 シロの本名は、みどりさんの息子さんがつけたもので、イギリスに実在する「手でエサを食う猫」の名前から取ったそうだ。世の中にはすごい猫がいるもんだな。クロの本名は妹さんがアメリカの漫画かなにかの主人公の猫の名前からつけたそうな。息子さんも娘さんもこの2匹をとても可愛がっていて、もちろん本名で呼んでいる。 息子さんとはしばらくいっしょに暮らしていたんだけど、ロンドンに就職することになって間もなく旅立って行った。その旅立ちの日、東の空がようやく白み始めた早朝に家の前の道路に出て別れを惜しんでいると、背後から「ニャン」という声がする。振り返ると玄関のドアのところで2匹の猫が並んで息子さんを見つめていた。こんなことは初めてだそうで、普段は陽気な息子さんも、声を詰まらせていた。  そう、マックも見送ってくれた

 シロとクロに日に2回エサをやることとクソ箱の始末をするのが日課となっている。机に向かう仕事をしているとつい睡眠や食事が不規則になりがちで、下手をすると妄想がわいたり幻聴が聞こえたりすることになりかねない。その点エサとクソが日課になっていることで歯止めがかかり、まずまず健康な日々を送っている。ヒルナミンとかリーマスなんかよりずっといい。マックはヒルナミンを飲んだことあるか。あれはムダな抵抗はやめろと必殺技を掛けてくる感じで、右に行けばフラフラ、左に行けばヨタヨタ、素人が飲むのはよしたほうがよいと思う。

  もう一つシロとクロに感謝しなければならぬのは、唯一話し相手になってくれることだ。歩いて20分ほどのスーパーへ買い物に行くのとたまに仕事の打ち合わせで街へ出かけるときを除けば、人間と口をきくことがない。まだ十分に会話が成立しているとはいいがたいが、とにかく話しかければ尻尾を振ったり振り向いたりしてくれるので気晴らしになる。心を開くにはまず口を開くことだとつくずく思う。「街」で厄介になったときも、マックのおかげでずいぶん助かった。              ありがとよマック

 シロとクロはまぎれもなく猫なのだ。しかしこれまで見てきたのとはちょっと違うところがある。まずでかいこと。普通の猫が舞の海くらいだとすれば、シロは小錦、クロは水戸泉といったところか実に恰幅がいい。顔立ちはなかなかのもので、土佐の海、琴の若あたりを思わせる。そして尻尾がこれまた太くて長い。すりこ木くらいの長さで太さは2倍くらいはある。クロは机に書類を広げるとすぐ上に乗ってきてチェックしてくれるが、なにかの拍子に尻尾を一振りすると、この前摘発された大和川病院のパンフレットなんか1メートルくらいはすっ飛んでしまう。

 変わっているといえば、極め付きは2匹ともよくひっくり返って仰向けになることだ。大股を開いて、両手は胸元にちぢめる。このポーズが何を意味するのか、外から帰ってくるとクロはときどき玄関の板張りでひっくり返ってみせるし、シロは夜中そっとのぞくと食卓の下でこのスタイルのまま気持ちよさそうに寝ていることがある。背中を痒そうに床に擦っていることもある。シロとクロに聞いてみても、ただキョトンとした顔で見つめるだけで、いまだにそのわけを教えてくれない。みどりさんによると、漫画家の赤塚不二夫さんとこの猫が同じ動作をするらしい。いちど尋ねてみたいものだ。   マックの場合はわかっている。

 エサといえば、シロもクロも豆粒くらいの大きさのキャッツフーズを食べている。毎度このエサだけでよく飽きないものだと思う。このまま一生食べ続けるのだろうか。たまにはホウレン草のゴマ和えとかキュウリの酢の物、ゴーヤチャンプルーなぞ食べてみたらどうなんだろうか。子供の頃「我が輩は猫である」を真似して三毛猫にモチを食べさせたら口の中にへばりついてもがきまくり、母親にひどく叱られた。だからいまのところどうしようか迷っている。

 シロもクロも、どういうわけか狭いところに興味があるらしい。鞄のフタが開いているとすぐ入り込むし、甘えん坊のクロなぞはこっちがちょっと横になるとすぐに上に乗ってきて脇の下や股ぐらに首を突っ込んでくる。そしていちばん好奇心をそそるのは書類袋やゴミ袋の類いで、入り込むのはいいが中身を掻き回したり引っ張り出したりするのでかなわない。

 袋といえば、「山寺の和尚さん」はマリの代わりに猫をかん袋に押し込んで蹴飛ばしたらしい。ひどい坊主がいたもんだ。それが童謡になっているというんだから、これまた驚いてしまう。試しに「山寺の和尚さんはマリを蹴りたしマリはなし……」と歌ってみたら、2匹ともすーっといなくなってしまった。 おいマック、どこへ行く  

 家の前は大きな通りになっていて車もけっこう往来する。しかし裏庭のすぐ奥は深い森になっていて小さな川が流れ、早朝にはリスが垣根の上を風のように走り、枝から枝へと飛び移る。この間の夜は、シロとクロが裏口から血相変えて飛び込んできて机の下や布団の中に隠れたので、なにごとかと外を見るとベランダに4匹のアライグマ親子がいてこちらを覗いていた。小川のあたりに棲んでいるらしい。ときには家の中まで入ってきて家の人達に一通り挨拶してまわることもあるそうだ。

 空気はきれいだし、空がすこぶる美しい。夕方になると裏庭の芝生に寝そべってよく空を眺める。ちょうど7時頃日中の陽射しが和らいだ頃がいい。刷毛でさーっと描き、綿をちりばめ、そしてどこから沸き出てきたのか力強く盛り上がった雲。ところどころ茜色に染まった真っ白な雲が、空の青、樹々の緑と見事なコントラストを描く。かたわらにはクロがうずくまり、ベランダにはシロが仰向けになって気持ちよさそうに目を細めている。心いやされる一時だ。

 この5月佐賀の神埼郡に下村湖人の生家を訪ねた。「次郎物語」の中で下村湖人は「永遠」と「運命」と「愛」を問いかけている。果てしなき時空とその中での出会いと愛、老連美村の自然と猫たちはそのことを実感させてくれた。

 間もなくこの地にも別れも告げ、陸奥のほうへと旅を続ける。別れの日はシロやクロが寝ている間に抜け出していくつもりだ。「街」の皆さんや「出会いの旅」に協力していただいている方々、そして「猫の手サポート隊」の皆さんにもよろしく伝えてほしい。

じゃあ元気でな、マック
1997年8月25日 老連美村にて

久良木さんを囲んで
(1996年9月6日) 会場「オープンスペース街」2階
週刊「街ニュース」第177号(1996年10月5日発行)

                9月6日、久良木さんが日本一周“出会いの旅”に出る直前に“オープンスペース街”で久良木さんのお話をうかがいました。以下の文は、その話し合いの模様を久枝さんがテープを起こしてくれたものです。

 一応、保護室から、閉鎖病棟、準開放病棟、開放病棟を一通り経験しています。

 病気になったからといって、人からとやかく言われる筋合いがないわけで、例えばお腹を壊したからといって「あなた、シッカリしなさいよ」と言えないでしょ。人間、誰でもいつかは病むわけで、お年寄りが寝込んだ時に「あんた元気じゃなければいけない」なんて言われたら、たまったものではない。それと同じで、人からとやかく言われる筋合いではないが、自分としたら辛いでしょ。眠れなかったり、不安感もつきまとう。それをなんとか癒していきたい。だから病院にも掛かっている。

 何とか自分の症状がそんなに酷くならないで癒せるようになった、山を越せるようになったには年のせいもあるかもしれない。10年ちょっと前に陽和病院でちょっと抜けたんですね。この病いは完全に消えることは絶対にないと思うんだけれど、ちょっと抜けた。
       
 なぜ抜けたかというと、NHK(「明日の福祉」)を見ていただけたと思うけれど、(陽和病院の)患者会活動をやるようになって、皆とドタバタ・ドタバタやりだした事が大きなキッカケでした。

もう一つは離婚したことで財産を別れた女房に渡し、身の回り品しか残なかった。その時ポケットの中に3000円位しかなかった。入院中だったので生活保護を受けた。

 いろんな仕事をしてきて、一生懸命頑張ってきて、人に一目置かれるいい仕事をしようと頑張ってきたが、そういうものが全く無縁の暮らしに入った訳で、それが大きいと思います。僕の病いが抜けたのには…。…肩の荷が降りたような気がします。お金を持っていない生活をあまり気にしなくなった。(犬の)マックほどにはいかないけど……(笑!)。

 僕よりも辛い思いをしてきた仲間が病院にはいっぱいる。20年~30年と入院していて。そういう人達と一緒にワッショイワッショイやっている中で、病いが抜けたわけです。

 それで患者会活動を始めてその延長で作業所(ほっとすぺーす練馬)づくりを7年前にした。ひょんなことから応援で所長を1年間やる羽目となって、(ほっぺーす)関町のオープンにもかかわり、早く足を洗って患者会活動に専念したかったが、1年半おつきあいさせてもらった。

 そして、ほっとすぺーす関町をやってる時に、ハネやん(赤羽さん)と出会って、それ以来の“街”とのおつきあいです。 ほんとに(“街”に滞在していた)この1ケ月間、大変に勉強させてもらいました。詳しくは“チャンプルー街”の新聞(170号)に載せましたので、是非読んでみて下さい。

 大変勉強させてもらった1ケ月間でした。そして勇気づけられました。なぜかというと、作業所が東京には250ケ所くらいありますが、残念ながらこういう(“街”のような)作業所は、数えるほどしかありません。

 なぜ作業所をつくりだしたかというと、病院に大量入院させられている。地域でいろんなこういうサービスの施設があれば……ということで「受け皿」として、作業所づくりが始まった。それはそれで大きな意味があると思いますが、残念ながらその中で、病院は患者を隔離・収容する形になっていて、多くの作業所は、地域で患者さんが悪いことをしないように管理していく施設として、本人は意識していなくても実質的にそういう機能している作業所が多いんです。

 それでは何の意味もないんで……。(参加者から「管理とは」の質問があり)患者さんがことを起こさないように作業所に通わせれば何とか地域で暮らして行けるだろうという発想。保健所とか作業所づくりににたずさわっている人、一般市民を含めて、そういう流れがあるわけで。そう、やろうとしている人達は気持としては「善意」なんだけど、それでは困るわけです。そうじゃない作業所を「ほっとすぺーす」でも目指してきた。

 3年間、リサイクルショップとしての実績があったからでしょうけど、この4月に“街”は作業所になった。そういうことのない作業所、一言でいうと、作業所はメンバーさんが“利用する”ためにあるでしょ。現に得るものがあるから通われるわけで。

 自分の都合に合わせて、調子が悪かったら休むとか、気兼ねなく休むとか、そう作業所であるべきですよね。でも多くの作業所は、“来なければいけない”“通わねばならん”場所という感じで、まさに管理される場所になってしまう。

 理屈抜きに“街”では、皆がうまく“利用する場所”になっているなと。いろいろ壁はあるだろうが、短期間にいい作業所になったなぁということ、こういう風にやれば、そういう場所になると教えられたことが、一番の収穫でした。

 それと、本物が出てきたなぁということで勇気づけられもしました。これはスタッフや運営委員会の人たち、ボランティアの方々だけでなしに、実際に運営されているメンバーの人たちが、「何かようわからんけども、いい作業所にしていこう」という思いの“持ち寄り”の中で生まれてきたんだろうなと思います。
 
 もう一つは(“街”の)1階の壁に写真が貼ってあるでしょ。(精神障害者日本カナダ交流)の人たちが来た時の写真です。3年ほど前に、僕らが始めたカナダの当事者との交流の写真で。第一次交流としてカナダから10人ほど見え、いろいろな(練馬区の諸施設)へ見学に行き(その際“街”の前で撮った)写真です。

 (カナダの代表団は“街”に)ものすごく感心し、興味を示したんですね、実際に見て。実は、こういう場がないんです、カナダには。リサイクルショップというのは、ありますよ。ただ、こういう形の当事者のための施設としてのリサイクルショップはない。これはある意味じゃ、カナダと交流をやった目的はカナダでは、いろいろケアが進んでいて、そこから学びとろうということで始めたわけですが、さらに進んだケアの姿がここにある、ということでカナダの人たちも気が付いて、興味を示された。

  どういう事かというとね。

 カナダでは共同住宅から、作業所、クラブハウスとか、たまり場とか、グループ活動の拠点とか、整理がつかない位いっぱいあって、そういうことで病院をどんどん減らして、その資金を地域に回している。人口対比でいうと、日本では35万人ほど入院していますが、カナダでは(入院者は)10分の1くらいしかいない。そのカナダの仕組みを地域に回して、地域で皆が“普通に生きていける”ようにという風になっている。そのカナダの中でも、“街”のようなこういう場はないんです。なにが欠けているのかというと、一般市民との交流の場ですね。カナダでも一般市民との交流の場はあります。あるいは当事者がいろんな事をやることにボランティアやリサイクルをやっている人たちが応援という形はあります。  
 ここ(“街”)は、日曜は休みですよね。しかし、日常的に開かれ、つきあっていますよね。それが大きいんです。一人ひとりのお客さんが(“街”の)趣旨を理解して参加していてオープンしていて、お客さんがどんどん増えてきて理解してくれてきている。その繋ぎ役としての貴重な存在がボランティアの方々ですよね。日常的に開かれていて、我々と地域の人たちがふれあう機関があるということ、これなんですよ。これが究極の姿だろうと思いますよ。
 
 ここが出来た時、こういう気持があって、カナダの連中(代表団)をここに連れてきたわけですけれど、改めて実際にこの一と月間“街”でうろうろ邪魔していて、そう感じました。これは大きな収穫だったし、大変、勇気づけられました。
 
 これから出かける全国の旅の中で“吹いて”まわりますから(笑!)。こういう風に頑張っている所があるんだから、参考にして下さいと。            

 
残りの部分は、今度掲載することにします。
「テープ起こし」という大変な作業をしてくれた久枝さんに感謝! 一度でもやったことがある人なら分かると思いますが、何度も何度もテープをまき戻して話の内容を書き出す作業です。今回の場合は“街”の2階でしたが、車のクラクション、××ちゃんのチャチャ、電話、いろいろな音が入った中で、久良木さんの話を聞き分けるのですから大変だったと思います。
*よく聞き取れなくて、勝手に解釈した部分がありました。お許しを!

★たくさんの方から『久良木基金』へカンパが寄せられています。

「皆様が生き生きと生活されていることに、とても嬉しく思っています。
 久良木さんが、いよいよ全国行脚に出発されたそうで、当地にも寄っていただくのを楽しみにしております。小額ではありますが、『久良木基金』にご協力させて下さいますよう、よろしくお願いします」 九州のNさんから5万円が送られてきました。感謝いたします!


心の病と心病める人々
1994年11月22日  久良木幹雄  東京都立大泉高校1年「現代社会」講義録(若干加筆)
 皆さんこんにちは。久良木(くらき)といいます。

 皆さんは、練馬区内にある陽和病院という精神病院をご存じですか。陽和病院には現在460人ほどの患者さんが入院していますが、私は7年前にこの病院を退院し、現在は通院しています。

 29歳のときに初めて入院し、あちこちの病院に出たり入ったりして通算8年間入院しました。そのたびに仕事を変わりました。現在59歳です。後で振り返ってみると、ちょうど高校生のころに病気の兆しがあったと思います。

 恐くない人々
 きょうは高校生の皆さんと、心の病、精神障害について考える機会を持てて嬉しく思います。いっしょに心の病について考えていきましょう。いま17~18世帯に1人は、精神科に通院または入院してるといわれています。このクラスは42人ですから、脅かすわけではないですが、2人ぐらいご家族に患者さんがいてもおかしくない。さらにその予備軍となると、大変な数です。これらの人は、皆さんのご近所でひっそりと生きています。アメリカの四つの州で行った調査によると、人間は一生のうちで3人に1人は、なんらかの精神的な病いにかかるということが報告されています。

 精神障害者というと、なんとなく恐いという感じをもつ人がいるかもしれません。この前、品川で事件がありましたが、新聞は、何か精神障害者がからむ事件があるとわっと報道する。そのため何をしでかすかわからない人と思うかもしれませんが、決してそういうことではありません。警視庁の資料によっても、精神病院に入院したり通院したりしている人は、健常な人より犯罪を起こす率、特に殺人とか強盗とか凶悪犯罪を起こす率が低い。人口対比で健常な人のほうが犯罪率は高いのです。

 その理由の一つは、精神障害者は、病そのものに加えて薬の影響もあって気力が低下し、おずおず生きているというのが現実です。だから、店頭で物をくすねるとかの「こそどろ」なんかはあっても、凶悪犯罪を起こせる人は少ないということです。

 もう一つ大きな理由は、150万人いるといわれる精神障害者のうち35万人もの人達が病院に収容されているので、変な言い方ですが「犯罪を起こす自由」がない。だから統計的には著しく犯罪率が低くなるのです。

 誤解のないように言っておきますが、入院中の人が危険というのではありません。むしろ入院患者で4か月以上入院している人が90%、4年以上入院している人が60%、10年以上入院している人が40%も占めていて、こうした人達の大半は住まいとか仕事とか社会の受入れ体制が不十分なため入院しているだけで、長期間薬漬けの生活を強いられているため活力を奪われているというのが実情です。

 したがって精神障害者は怖い存在ではありません。だけど健常な人と同じで、犯罪を犯す精神障害者も当然います。精神障害者が皆真面目だというのも間違いです。

  人間関係の病
 さて、心の病にかかると確かにつらい。どんな症状があるかというと、眠れなくなる、幻聴といって変な声が聞こえてくる、いろいろと妄想が出たり、何もないところに物が見えたりする。かと思うとやたらはしゃぎたくなって押さえきれない。これは非常に辛いことで、本人は癒したいと思う。こうした辛い思いをする心の病も、一言でいえば人間関係の病です。

 皆さんもいままでに、心配で心配で、つらくてつらくて、悲しくて悲しくてたまらないという思いをしたことがあるでしょう。自分は一度も悩んだことがないという人いますか。ほとんどの人が悩んだことありますよね。人間は誰でも、悲しんだり喜んだりして生きていく、それが人間だと思います。

 今朝も仲間から、アパートの人達が私のことをジロジロ見る、不安でしょうがないという相談の電話がありました。世界中が私を敵視しているという人もいます。特に患者さんの場合、こういうことが多いのです。しかし皆さんでも、次めような悩みを感じることはありませんか。クラスの人が私のことを除け者にしている、別にいじめにあっていなくても、自分がクラスのみんなから浮いているんじゃないかと、ふっと思うことはありませんか。

 あるいは逆に、体育祭で1等になって拍手喝采を受け、たまらなく嬉しかった。また、隣の席の男の子が好きで好きでたまらない、恋い焦がれて胸がキュンとする。初恋って小学生のころから、ちょっとした憧れから始まるでしょう。皆さんもそんな年頃になりつつある。喜び、悩みで苦しくて夜も眠れない、そういう年頃になってきています。

 実は心の病は、こういった悩みや喜びがプワーツと膨らんだ時に起きてきます。一定のところまでいくと、さっき言ったような症状が出てきます。やたら騒々しくなったり、夜眠れなくなったり、幻聴が聞こえたりします。このように心の病の根っこみたいなものは、すべての人にあると考えてください。それが一定のところまできたら、病としてとらえるんだと。

 これは決してマイナスだけに受けとらないでください。病気になればつらいが、こういった喜びや悩みや悲しみがバネになって、人間は一生懸命生きていきます。こういった悩みや喜びがあるから人間だともいえるでしょう。

 先はどの例をもう一度見ます。アパートの人が私を変な目で見ている、クラスの人から自分が浮いている、体育祭で1等になって嬉しかった、恋をして胸が痛いなど、全部の事例に共通しているのは、すべて他人、自分以外の人あるいはグループがかかわっているということです。

 では次の例はどうでしょうか.隣の家の猫が俺のことを馬鹿にしている、こういう経験がある人いますか。隣の家の猫に馬鹿にされたと悔む人は、ほとんどいないと思う。相手が猫だから、人間じゃないからです。でもこれが深刻な悩みになるケースがたまにあります。どういうことかというと、猫にちょっと来いと手招きしたら無視された時、あいつは猫にも馬鹿にされるようなだらしない奴だと人に思われるんじゃないか、あるいは猫を飼っている隣の人のせいだと、イライラしてくるのです。つまりこの場合にも他人の影がからんでいるということです。

 人間というのは、文字通り人と人の間柄ということだと思います。人間は他人との間柄で生きている。しかも東アフリカで誕生したといわれる人類は、高度の頭脳を持ち、地球の全域に生息する唯一の動物として、他の動物とは比べものにならないほどさまざまな群れをなして生きています。群れ、集団の形は、家族に始まって、親戚、村落、町内、人種、民族、国家、学校、戦場、同好会、宗教などきわめて複雑で多様です。したがって人間というのは間柄が非常に広く緊密で、複雑な動物です。

 つまり人間というのは、他人である個人あるいは集団との関係の中で、喜んだり悲しんだり、すったもんだやりながら生きていくわけで、それが生きるバネにもなっているし、その関係がうまく行かないでこじれると心の病に陥ってしまうということです。

  幻想の果てに
 人間だれしもが持つ喜びや悩みを、どうやったら病というつらい思いにしないでいけるか、病に陥ったときどうやって癒していけるのか。もう少し病の正体みたいなものを掘り下げて考えてみたいと思います。

 心の病の根源にあるものを考えるとき、他人の影がちらちらする、人間関係の病だと先ほど言いましたが、その関係の中で何が重要なのか、それは他人と一体になりたいという願望です。これを合体願望あるいは一体幻想と私は言っています。あるドクターは、他者容認願望と表現しています。他人から認められたいという願望、幻想、ファンタジーです。

 皆さんがお母さんから生まれたときに、お母さんは他人になっている。生まれ出るまでは一体だったが、生まれたときに離れてしまう。母と子は、そういう意味では他人です。このクラスは一人ひとりは独立した人間で、42人で一つの群れ、集団になっていますが、いっか離れ離れになる時がきます。ところが人間というのは、いっしょでなければ不安だという思いをずっと抱えています。いろいろなものの考え方とか感じ方に、いっしょであってほしいという思いがついてまわる。

 しかし実際には、母と波長が完全に合うはずはないでしょう。皆さんも年ごとに家でしょっちゅうケンカをするのではありませんか。子供のころはお母さんのおしりにくっついていたでしょう。中学生くらいになると親とケンカをするようになる。いろんな感じ方も違ってくるし、意見もしょっちゅう対立するし、そうやって大人になっていく。

 ところが根っこのところで、全部一体、すべて私と同じように感じてくれるはずだという幻想がついてまわる。うまくその幻想から卒業できないとずっと引きずってしまう。特に高校を卒業して就職したり進学したりすると、職場とか大学とか新しい群れ、新しい集団の中へ入っていくわけですが、他人とのかかわりは、相手が上司や先輩といった個人から、同期生、会社、組合、ときには宗派といったいろんな群れにいたるまで、複雑にかかわらざるをえなくなります。そうしたときに一体幻想があると、他人の評価をものすごく気にするような不安や焦りがついてまわるのです。私は私、人は人、されど仲良くという姿になかなかなれない。

 合体願望というのは、本当はありえないものを求めるわけですから、私は幻想と言っているわけです。そして合体願望が満たされないと、底知れぬ孤独感、疎外感に襲われます。合体願望を満たしたいという思いは、まったく別の方向、果てしない陶酔感へ向かうことともなります。一体幻想が疎外感あるいは陶酔感へと行き着いたとき、もはやそこは病の領域といえるでしょう。

 病は具体的にどういう姿になって現れるか。他人との関係で3つのパターンに分けられると思います。①分裂症、②ヒステリー症、⑧躁うつ症です。そしてこれらの予備軍としてのさまざまな神経症、例えば不安神経症、拒食症、不潔恐怖症、パチンコ依存症、帰宅拒否症候群などがあります。

 ①の分裂症は、対象としての他人が集団である場合になりやすく、ひどくなると幻聴や幻視といった症状に悩まされます。②のヒステリー症は、相手が個人である場合で、決まった個人ということではなく、相手は転々と変わりますが、激しい興奮やけいれんに見舞われることがあります。③の躁うつ症は、他人との関係が自己化する場合だといわれていて、状態が悪くなった場合、さまざまな妄想が生じるのが特徴です。自己化というのは、先ほどの例で、クラスの人達が自分を除け者にしているという思いが高じると、分裂症の症状へ進んでいく。それが、そういうふうに思われている私はなんて情けないんだろうとか、私は正しいのにとか、自分の思いに入っていくと躁うつ症の世界へ進むと考えてください。

 こんなふうに心の病というのは、重くなるとつらいわけですが、その根っこはすべての人間が抱えていて、人間のエネルギーの源といってもいいかと思います。新しい文明を築き上げ、新しい文化を創造してきた担い手達の多くは幻想家であったし、逆に絶えることのない戦争や大量殺戮、貪欲な自然破壊、身近なところでは「いじめ」なども、幻想のなせるところといえるんじゃないでしょうか。そういう意味で心の問題は、心病める人々だけでなく人間共通の課題だと思います。

 いくつかの伝説
 心の病が人々の生きざまにかかわっているためか、病のとらえ方も時代とともに変化してきているわけですが、中には時代遅れの伝説めいた、どうにも理解しがたいものがあります。そのうちから2、3とりあげて考えてみたいと思います。

 まず先ほど心の病の3つのパターンで症状名をあげましたが、これがどうもよくない。特に分裂症という名前は、およそ1世紀近い歴史をもっているんですが、日本語としても破滅的な印象を与えるし、症状の特徴からいっても不適切だと思います。

 また、躁うつ症という名称も誤解を招きやすい。ハイになったとか落ち込んでいるとかいう言葉が、最近日常会話でも使われるようになってきて、それ自体は結構なことと思うんですが、気分が高揚したり停滞したりの循環は、決して躁うつ症の人達だけの専売特許ではありません。分裂症やヒステリー症の症状でも見られるし、もちろん健常者といわれる人でも、年代の変わり目や、進学、就職、結婚、出産といった人生の節目などを区切りとする循環があるわけで、このへんを見落とすことになりかねないといった意味でも、適切ではないと思います。

 頭の良い人が一心の病にかかるということもよく言います。これは完全に間違いです。心の病というのは理屈じゃなく、感じることです。理性の世界じゃない。感度、感性の世界の問題です。知能指数の高い人がなるんだとしたら、この練馬区で難しい試験に合格してきた皆さんは、たぶん頭のいい人達だと思うので、皆病人になってしまうかもしれない。決してそうではありません。

 「脳病院ブルース」という歌をつくった仲間がいます。非常におかしく、やがて悲しき歌なんですが、その一節に「神童、秀才とおだてられ、末は博士か大臣と、いわれたこともあったのに、たどりっいたは脳病院」というのがあります。回りの人から秀才だとおだてられ、いつも周囲から賞賛される人間にならなければいけないという幻想に追い込まれていった。そういうことでは、病の一つの根源を突いていると思いますが、彼が秀才で頭がよかったからだとするなら間違いだと思います。

 心の営みは、肉体、身体の変化を伴います。皆さん、あした試験だというときに、緊張しておなかがキューツと痛くなることがありませんか。人間は非常につらいときや悲しいときに、おなかが痛くなったり下痢したり、心の営みは必ず肉体のなんらかの変化を伴います。喜んだり悲しんだりするあなたは、どこで喜んだり悲しんだりするかというと、自分の体の中で喜んだり悲しんだりする。心がいろいろ動くと、体に変化が生じる。極度にストレスにさらされると、急性胃かいようになって胃の中が穴だらけになります。

 よく精神障害は「脳病」だという人がいますが、心の営みが脳を中心に行われるという意味では正解なんだけれども、脳が変だとか脳が壊れているという意味でいうとするなら、間違いだと思います。中には生まれつき脳の構造なり機能なりが通常の姿と一部異なる人がいますが、それは心の営みを考える場合決して決定的・固定的なものではなく、舞台装置が少し違うだけで、心の営みとともに変化するものだと考えるべきだと思います。

 幻聴や妄想が出たり、不安感に襲われる、興奮状態が異常に高まったりしたとき、脳を中心に休も変化しています。それは鎮めないとつらい。そういうとき薬が効きます。1950年代になって、向精神薬といわれる薬が非常に発達しましたので、つらさを和らげることができるようになりました。

  親友こそ心の支え
 時間がないので、話を飛ばします。最後に、心の病を癒す、あるいは防ぐにはどうしたらいいか。だれでもが抱えている喜び、悩みの延長線上に心の病はあります。だれでもがかかりうることを、きちんと理解していただきたい。逆にそれは、過大に恐れる必要はないということです。人の目がやけに気になりだしたり、孤立感に悩まされたりしたとき、つらく考えないでどうかきょうの話をふっと思い出してください。つらくなってどうにもならないと感じたら、気軽に適切な相談なり治療を受ける、そうすれば病は防げます。

 草津節の替え歌に「お医者さまでも草津の湯でも、恋の病は治りゃせぬ」というくだりがあります。おなかが痛くなったときに薬で痛みを止めることはできるが、薬だけで丈夫なおなかにすることはできない。腹八分というふうに食事に気をつけたり適当に運動したりして、日々の暮らしの積み重ねの中でしかおなかを丈夫にすることはできない。

 心の病でも同じで、薬で症状を押さえることはできても、病を根っこのところで癒し、病にかかりにくくしていくには、すぐれたワーカーやお医者さんのアドバイスを受けながら、日々の暮らしの中でやっていくことが必要です。草津の宿に4年も10年も閉じ込められ、朝から晩まで湯船につかっていたら、身も心も弱っていくだけです。いいとこ3か月が限度でしょう。最初に話しました35万人もの人々が長期間精神病院に収容されているという現状は、人道上許せないだけでなく、医学的にもいいはずがないし、心の病と心病める人々について正しく理解するのを妨げています。なんとかしなきゃと頑張っているところです。

 心の病にとっていちばんの良薬は、いろいろな違いを越えて互いの存在を認め合うことです。勉強ができるかできないか、家が貧しいか豊かか、そういったことは関係なしに、そういった違いを越えて、互いの存在というものを認め合うことです。体育祭で1等の人もビリの人も、所詮それだけのことに過ぎません。どんな違いのある人も尊い命なんだ、という実感を認め合うときに、すべての違いは実は決定的なものではなくなります。そのとき、本当の意味での協同、人間としての連帯、愛というようなものが生まれて、いろんな不安が不安にならないで済むということです。

 皆さんぜひ、親友をつくってください。特に同性の友人をつくってください。異性の友人も大事ですがなかなか難しいところがあって本音を話しにくいということがあります。一人ではなく複数の友人をつくってください。大学に行っても将来職についても、それぞれの人生の中でなんでも話し合える、顔かたちが違っても職業が違っても、なんでも話し合える親友をもつことがいちばんの良薬です。病にかかったとき、頼りになるのはそういう親友です。だから私たちは患者会活動をしています。お医者さんや薬の役割を否定するわけではありませんが、親友ほどすぐれた支えはありません。

 あいつ最近ちょっと落ち込んでいる、何かつらそうだなと思ったときは、どうぞ声をかけてください。それはあなた自身にとっても、とても大事なことだと思います。

 これで終わらせていただきます。どうもありがとうございました。(拍手)

昼食は鮭チャーハン 餃子
差し入れ 差し入れの焼酎2本
夕食はクーちゃん差し入れ「北国かぁ
ちゃん」のスイトン
差し入れのカボチャを煮た
差し入れの三里塚の大根漬け
差し入れの帆立をバター焼きに 塩麹キノコ鶏のソテー
夕食交流会、若者が集まって その後、「街」屋台 ハロウィーン衣装の女性と記念写真

10月30日(木)
11・2まで、あと2日いよいよ大詰め!
一日中街宣にも力が入ります。

11・2の労働者集会に、行く、参加する、と言っていてもなかなか連絡が取れないで、やきもきしていた人たちに連絡が取れて、ほっとしたりしています。
夜の屋台では、来年の11月集会はこうなったらいいね、そうしたらすごいことになるね!とか、わくわくドキドキの話が出ています。
一人一人が、リーダーになって、先頭で突っ走ろう!!
こんな勢いです!
朝、意志一致して、1日署名へ!
昼食は沖縄バヤリース労組物販の
スパム
差し入れの厚焼き卵
署名!! 署名!!
差し入れの花!花!
午後の「街」前 毎日、「前進」を読む若者たち
夕食は今季初、鱈鍋 安いサンマ焼き 鯵のたたき
三里塚の里芋煮 差し入れ
← 差し入れ


残りご飯に枝豆と茗荷を入れ
勝負の「街」屋台 人間じゃなく、犬ばかりが登場。
ソフトバンクの北海道犬がお迎え
 11ケ月のクルミちゃん
老齢のクルミちゃん 犬、出会いサイト
11・2に行けなくていじけているK君。
仕事で行けなくて落ち込むな!
カフェ

 だ  ん   け  つ  2014年10月30日 
 
1007
東京北部ユニオン
リサイクルショップ「街」分会
関町北4-2-11
 電話 3928-1378
激動の韓国から民主労総27人
代表団
11・2集会参加発表!
 韓国では、セウォル号事件を居直ったパククネ政権による、新自由主義攻撃の一層の全面展開と労組破壊攻撃の激化に対して、労働者階級の怒りの猛反撃が始まっている。10月25日には、ソウルの中心部で全国から結集した非正規職労働者5千人が集会を開き、非正規職撤廃とパククネ退陣を正面に掲げて新たな大闘争に入ることを宣言した(写真)。この闘いの真っただ中から、民主労総ソウル地域本部の代表団27人が大挙して訪日し、11・2労働者集会に参加する。イヒョンチョル副本部長を団長として、現場で当局・資本との激しい攻防を闘っている労働者たちだ。鉄道労組からは2人が参加し、その1人は6・8国鉄集会にも来たオムギリョンさんだ。

 訪日団にはさらに、イジェヨン指導委員(元ソウル本部長)など民主労総の中心的活動家や、サイバー労働大学のキムスンホ氏も加わっている。また、学校非正規職労働者の闘いを描いた『私たちが見えますか?』の本(労働者学習センターで翻訳・刊行)に登場するホンイク大のイスッキさんなども含まれている。

 10月25日午後5時、ソウル市世宗路のファイナンスビル前で開催された「2014非正規職撤廃!全国労働者大会」には、公共部門をはじめあらゆる産別の非正規職労働者や移住労働者などが集まり、資本と結託して労働者をますます劣悪な労働条件に追いやっているパククネ政権に怒りをたたきつけた。
 会場のファイナンスビル前は、ケーブル放送C&Mの非正規職労働者が解雇撤回を求めて120日近く野宿座り込みを続けている場所だ。民主労総のシンスンチョル委員長は、80万民主労総のうち非正規職組合員がすでに17万人を超えたとし、「いまやこの社会は非正規職の声を聞くことなしには回らない。非正規職労働者たちはこれまで怒りと恨みと悲しみで闘争してきたが、きょうこの瞬間からはけっして孤独ではない闘争になるだろう。闘いはきょうを基点に明確に変わるだろう」と宣言した。
集会にはセウォル号遺族(写真)も登壇し、「この社会は歪んでおり、持てる者はより多く持ち、貧しい人々はより貧しくなるばかりだ」と、韓国社会の根本的変革を訴えた。
 大恐慌の進展と中国バブルの崩壊の始まりが韓国経済を直撃するなか、パククネ政権と財閥資本は韓国の労働者階級を一層の強搾取にたたき込むことで延命しようと必死になっている。鉄道や医療をはじめ公共部門の全面民営化と、それをテコとした総非正規職化の攻撃、労組破壊・労働運動圧殺の攻撃がいまやむきだしに襲いかかっている。だが昨年末の鉄道労組の23日間ストを転機に反撃に転じた労働者階級は、パククネ政権の激しい弾圧や切り崩し攻撃をも打ち破り、新たな団結をつくりだして不屈に闘っている。さらにセウォル号の惨事は、資本と国家の犯罪的正体を決定的に暴くことによって、新自由主義への全人民的な怒りに火をつけた。パククネはセウォル号遺族の真相究明・責任者処罰のための特別法制定要求を拒否し、その公然たる居直りに、怒りはますます高まっている。

 こうした中で9月には、現代自動車の非正規職撤廃闘争でソウル地裁が、現代自動車の生産工程で働くすべての社内下請労働者が不法派遣の状態にあるという労働者側全面勝訴の判決を下した。現代車ウルサン非正規職支会を先頭に、現場労働者が2010年の工場占拠闘争や2013年の鉄塔籠城闘争を闘い、現代財閥資本の総力を挙げた激しい労組破壊と弾圧・懐柔・分断の攻撃にも耐え抜いて団結を維持し、文字通り実力でもぎりとった判決である。

 新自由主義粉砕とパククネ政権打倒を真っ向から掲げて闘う韓国労働者階級との連帯を今こそ強めよう。11・2労働者集会への空前の大結集をかちとり、11・3国際連帯集会の圧倒的成功を闘いとろう!(千)
 11月2日(日) 正午 東京・日比谷野外音楽堂
 呼びかけ/全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部/全国金属機械労働組合港合同/国鉄千葉動力車労働組合/国鉄分割・民営化に反対し、1047名解雇撤回闘争を支援する全国運動
 動労千葉を支援する会 のブログから転載
田中優子総長がテレビ番組で「内部告発は大事」と発言。
3・14法大弾圧を許さない法大生の会のブログから転載
まずはこれを見てほしい。
http://www.hosei.ac.jp/gaiyo/socho/NEWS/141020.html

法大当局はホームページで、「田中優子総長が、テレビ東京『ニュースモーニングサテライト』に出演します」と宣伝している。

その動画がこれだ!
http://www.tv-tokyo.co.jp/mv/nms/bookmark/post_77181/

そして、最も許しがたいのが、以下の発言だ。

「大学の中で職員が内部告発をしたとする。それを想像した場合」
「私はその人に会って内容を聞き、乗り越えられる問題であれば実行する」
「そういう意味では大学にとって内部告発者は大事な存在だと思っている」
「内部告発があったら会って話を聞く」だと!?「内部告発者は大事な存在」だと!?ふざけるのもいい加減にしろ!!

田中優子は、8年間で126名の学生が警察に逮捕されても一切見て見ぬふりをしてきた。今年4月の総長就任以降も、文化連盟の申入書をすべて受け取り拒絶し、挙句の果てには文連委員長・武田雄飛丸君を警察に売り渡したではないか!

さらに田中総長は、学生に偉そうに説教をしている。

「本当の自由というのは自分がこれだと思ったときにその行動をとること」
↑実際、原発御用学者に抗議をした武田君は弾圧教授に暴力的に排除され、「無期停学」の処分を受けた。
何が「自由と進歩」だ!!
最も「信念」を投げ捨てているのがお前だ!田中優子!
「自分の生き方だというものを持つことによって」

↑「無期停学」処分を受けても屈せず、生き方をかけて声をあげてきた武田君を警察に売り渡したのは田中優子総長だ。

それが自由感や自立につながっていくと思う」

ありがとう!「りんたろうの歌」by えびのから
「たみとや」日誌から転載のホームページから転載
えびのから(東京北部ユニオン前書記長、看護士、シンガーソングライター)が創って贈ってくれました

「実は、りんちゃんが亡くなった翌朝、仕事に向かう途中、りんちゃんの歌が降りてきたんです。。。

りんちゃんに贈った手紙はその歌詞でした。
ギターがとっても上手な友人に伴奏をお願いしてCDに録音することができました。」

彼女の歌詞カードや新たなりんたろうの写真などを入れて動画にしました(3分)いいうたです 聴いてください Le'ts Listen!  Vamos escuhar!
介護人材があと100万人足りない!ケアの現場で待ったなし「移民」への道
ダイヤモンド・オンライン 10月29日(水)8時0分配信
この連載ではこれまで、課題を抱える日本の高齢者医療・介護に対して「あるべき姿」を提言してきたが、もう一つ日本には特異性があり、これを打破する議論が求められている。それが「人材鎖国」の問題である。

 高齢者の増加と共に医療や介護の必要者が増えると同時に、日本全体の人口は減少していく。当然のことながら医療、介護に関わる人材がこのまままでは相当深刻な不足状況に陥らざるを得ない。そこで、今回は介護人材に焦点を絞って考察を進める。結果として「移民国家」への大きな政策転換が必至とならざるを得ないと思う。
 ● 2025年までに介護職100万人増員へ 注目の外国人雇用が抱える課題
 団塊世代が75歳に達する2025年には、今よりも看護職で50万人、介護職で100万人の増員が必要と政府は見ている。2012年度の介護職の総数は約168万人で、2025年には249万人の就業が欠かせない。増加分が100万人と言うわけだ。その対策にやっと視野が向いてきたが、まだ政策として確固とした肉付けがされていない。

 打開策として議論され出したのが外国人への門戸開放策である。政府は6月24日にアベノミクスの第3の矢として骨太の方針と新成長戦略を決め、外国人の大幅な雇用拡大策を盛り込んだ。

 働く人の減少が著しく、危機感を抱いた政府が既存の規制を自ら破って外国人に助けを求める新施策である。何しろ15~64歳の働く世代が12年ぶりに8000万人を割り込んでしまった。前年比116万5000人減。さいたま市とほぼ同じ人口が消えたことになる。

 そこで、女性と高齢者、それに外国人に働く現場に出て来てもらおうと安倍政権は考えた。なかでも注目されるのは、外国人雇用の特殊制度である「技能実習制度」に介護職を加えたことだ。

 技能実習制度は、発展途上国から来日して技能や知識を身に付け、帰国後に国の発展に寄与してもらおうという趣旨で1993年に始めた。日本は外国人の単純労働者を受け入れていない。だが、この制度は技術移転であり、人材育成の国際貢献という名目を掲げて原則論の隙を突いた。本音は産業界の要望に応えた人手不足の一時的解消策なのは明白だ。

 最長滞在期間を3年と期限付きにして、抵抗の多い「移民」論議も回避した。漁船漁業、養殖業、畜産、パン製造、建築大工、金属プレス加工、溶接、婦人子ども服製造など86職種の現場で約15万人が働いている。途中から他職種に移行できない。介護は「日本の技術が他国より優れているとは言えない」という理由で外されている。

 それが一転、積極的に拡大することになった。新たな職種として林業と自動車整備、店舗運営管理、惣菜製造それに介護を検討すべきとした。受け入れ人数枠を増やし、滞在期間も最長3年から5年に延ばす。五輪需要を見込んで建設業はすでに5~6年に延ばす措置がとられ、造船業も適用されている。さらに帰国しても再来日して2年程度の再実習ができるようにする。

 いずれも法相の私的懇談会「出入国管理政策懇談会」の分科会が報告書としてまとめたもので、6月10日に谷垣法相に提出した。
 だが、同制度は問題も抱える。
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 「最低賃金で酷使され、残業代が支払われない」という批判が絶えない。旅券や預金通帳を事業者が強制的に取り上げたり、労働基準法を守らない違法労働や法外な家賃――。過酷な労働現場は人権侵害とも指摘もされている。暴行事件で警察沙汰になることもあり問題が山積みである。

 米国国務省からも6月に「技能実習制度には強制労働の現場がある」と批判された。同報告は世界の188ヵ国・地域の売春や強制労働のなどの実態について調べた2014年版の報告書に記載された。不適切な事例を挙げるとともに、「最低基準を十分に満たしていないが、改善に努めている」という評価だ。

 そこへ、外国人が参入できる別ルートが突如出現し、脚光を浴びている。経済連携協定(EPA)に基づくインドネシアとフィリピン、ベトナムからの受け入れだ。来日3年後に介護福祉士を受験する決まりである。だが、今年の3月の試験ではインドネシアとフィリピンの両国併せて78人しか合格しなかった。日本人を含めた合格率は65%だが、外国人は36%と低い。合格すると日本で働き続けられる。始まってから3年の全合格者は242人と少ない。

 この外国人参入の“別ルート”はもともと、主に日本の農産物の関税率を下げずに農家を守るため、小泉政権がやむなく受け入れて始まったものだ。厚労省にとっては想定外の「突然の意外な命令」であったといえよう。決して長期的な戦略に基づく介護職の人手不足対策ではない。多くのマスコミが人手不足を補う施策であるかのように報じているのは間違いである。

 もう一つ、外国人活用が思わぬ方向で実現しようとしている。安倍政権の目玉である働く女性の支援策として、家庭での家事支援のために外国人の助けを得ようというものだ。

 家事を支える人がいれば女性の社会進出が一挙に増えるはずという考えから生まれた。掃除や洗濯、育児などの家事や家族介護を理由に就職できない女性が220万人いるとの試算を政府は公表し、その根拠を明らかにした。国家戦略特区のうち、関西圏(大阪,兵庫、京都の3府県)での導入が検討されている。

 ただ認可保育園と違って公的な制度が確立していないため、国や自治体からの助成金の投入は難しい。外国人に家事を頼めるのはかなりの富裕層に限られそうだ。

 政府はこうして各種の方針を打ち出したが、法務省や厚労省が具体的な制度にのせるのはまだ先だ。
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● 外国人労働者はたった1.1% 海外との比較でわかる「鎖国」状態
 外国人への門戸開放策は国際的視野でみると当然の流れだろう。外国人労働者は約72万人に止まり、労働力人口比で1.1%に過ぎない。米国は16%、ドイツは9.4%、英国は7.6%と大差がついている。総人口比でも米国やドイツは13%台、英国とフランスは10%台なのに日本は207万人で1.7%。入管法や難民の拒絶策でも明らかなように、日本は人については「鎖国」状態に近い。

 欧州を旅行するとヒジャブやブルカ、ニカブなどイスラム教徒独特の衣装をまとう人を繁華街でよく見かける。他国からの流入に寛容なオランダでは、モロッコやスリナム(南米の旧オランダ領)など国や宗教ごとに区分けされたデイサービスの部屋が並ぶ高齢者施設がある。外国人の受け入れに日本ほど消極的な先進国はない。

 「職が奪われ、賃金が下方にシフトし日本人の給与も下がってしまう」「社会生活の考え方が違うので同じ仕事をするのは難しい」「日常生活でも習慣の違いで近隣トラブルが増える」との声が支配的だ。新成長戦略を議論する経済財政諮問会議で、担当大臣が「日本語や文化を十分理解していない外国人が関わるのは問題」と発言してしまう。多くの人の考え方を率直に言葉にしたのだろう。

 そこで、技能実習制度を再度点検してみる。大きな問題は、在留期間を限定した雇用第一主義であることだ。長期間滞在していれば地域住民とならざるを得ない。単なる労働力の「拝借」では済まないことになる。家庭を持ち、生活環境が整った暮らしを望むのは当然のこと。子どもが誕生すれば学校に通い、病気になれば病院で受診、近所付き合いも深まる。普通の日本人と変わらない暮らしに近づいていく。

 もはや、移民との違いは紙一重だろう。移民についての定義は確立していないが、国連では「通常の居住地以外の国に移り、少なくとも1年間住む人」とかつて示したことがある。技能実習生は明らかに移民と言わざるを得ない。

 国際貢献という本来の理念とは乖離する。日本人と同じ生活者としての対応を迫られる。「移民とは全く違う」と政府は唱え続けるが、人数が増えれば移民としての処遇は避けられないだろう。「労働力」としてではなく「生活者」と認めるには移民の制度化が是非とも必要だろう。

 日系のブラジル国籍者だけでも20万人近くが現実に居住している。バブル期の人手不足が追い風となって急増、リーマンショックで帰国者があったがそれでもこれだけの人が暮らしている。技能実習制度の外国人がその後継になる可能性は高い。

 広く世界を見渡せば、異なる国や民族の居住者への対応が進みつつある。カナダと豪州では1970年代に「多文化主義」の概念をとり入れ、定着させている。多文化主義とは、異なる文化を持つそれぞれの集団やその文化をどれも対等に扱わねばならないという考え方だ。その結果、先住民や少数民族、移民の権利が確認され出した。英国やスウェーデン、フランスなどでも多文化主義が次々導入されてきている。

 中でも豪州の政策転換は日本でもお手本となりそうだ。と言うのは、それまでは「白豪主義」を掲げて英国人を中心にした白人国家を主張してきた。元々英国からの囚人が送り込まれた英連邦の一員であり、19世紀中ごろにゴールドラッシュで中国系移民が急増、その後インド系や日系が増えていく。アジア系移民の増大に脅威を抱いた政府が移民制限法を成立させたのが1901年。選挙や労働の現場で白人優位の制度が確立していく。
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 1970年代に国際交流が深まるとともに国民の意識が大きく変わり始め、ベトナム戦争後のベトナム系難民を受け入れだして移民政策の転換が叫ばれ出す。そして、白豪主義から多文化主義へと国策の土台を覆すことになる。今や労働者の25%は国外出身者であり、少なくとも片親が国外出身者の子どもは40%に達する。

 アイヌ系などの人がいるのにもかかわらず、「単一民族」意識が強い日本はかつて「白豪主義」に浸かっていた豪州と似ている。だが、世界的な国際協調路線に反するような国策を維持できなくなるのは、各国に共通しているはず。様々な文化を認め、尊重するのが歴史の流れである。

● 移民の受け入れで 日本は多様性の国に生まれ変われるか
 スウェーデンやドイツでは成長する経済の現場での人手不足から外国人に頼らざるを得なかった。北欧の介護現場に視察に行くと、東欧やアフリカ系、アジア出身者たちが働いている光景に出くわすことが多い。

 ドイツではトルコや南東欧からのなし崩しの移民が増え、政府は学校や社会保障政策を充実させることで、実質的な多文化主義を取り入れだした。定住外国人にドイツ語や文化を教える講座の受講を義務付けたり、スポーツなどを通じてドイツ人との交流機会を増やすなど「統合政策」を推進。定住を前提に社会に溶け込んでもらう施策を05年に移民法として結実させ、「移民国家」へと転換した。

 「移民国家」に反対していた政党、キリスト教民主同盟(CDU)が05年に左右大連立政権のリーダーとなり、メルケル党首が首相に就任し政策転換を実現させた。経済界からの強い要望に応えたという側面もある。

 それまでは、3年の期限を設けて帰国を促すなど中途半端な施策しかなかった。これは日本の現状と似ている。「移民は受け入れない」と主要政党が一致していたこともそっくりだ。

 日本の介護業界にも「究極の成長戦略は移民の受け入れ」と明言する経営者がいる(7月28日付日本経済新聞)。サービス付き高齢者住宅(サ高住)の最大手、メッセージの創業者、橋本俊明会長である。

 「技能実習制度の拡充は小手先の対応に過ぎない。移民としてきちんと受け入れ処遇する道を開くべきだ。移民を受け入れることで労働力が確保できるだけでなく、日本社会に多様性が生まれる。それはイノベーションにもつながり成長に大きく寄与するのではないだろうか。一方で日本社会も変わるだろう。そういう変化を受け入れる勇気、覚悟を持てるかどうかどうかが問われている」

 真にもっともな考えである。

 ワールドカップで優勝したドイツチームで外国の出身者が活躍した姿が目に浮かぶ。米国のワールドシリーズでもカリブ海諸国からの選手が目を引く。

 最近の欧州諸国やEU議会などの選挙で「移民反対」を唱える右翼政党が躍進しているが、大局的にみると振り子の揺れに過ぎないだろう。歴史の歩みの中では、一時的な反動勢力が現れることはよくあること。一歩後退二歩前進の歩みは変わらないだろう。

浅川澄一


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『ジュゴンとオバァ』(2007年・全編) 富田晋の青春

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