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12月5日(金)
現代革命への挑戦 下巻・第9章の読み合わせを始めています。3日目!
荒いスキャンなので、スキャン・ミスは勘弁!
 3章 日帝権力との内乱的大激突   130頁
(1節)騒乱罪攻撃とその突破
 激動の7か月を全力で走りぬいた全学連の学生と反戦青年委の労働者は、その血みどろの闘いをとおして、社会の根底的変革=革命の現実性を体でつかんだ。どんな困難があろうと、命がけの決起と団結をもって巨万の人民と結びつけば必ず未来は切り開けるという、不動の確信がそこに生まれていた。だが、この過程での2千数百人の逮捕・200人の起訴という膨大な逮捕者・負傷者の続出と、その結果としての学生戦線における指導部の弱体化は、そのまま走りっづけることを困難にし、68年4月以降、一定の調整期に入ることを必要とした。
  ▼① 隊列の再武装   132頁
 この調整期において革共同は、隊列の再整備・強をおこなうとともに、67年10・8羽田以来の闘いを総括し、それが切り開いた全世界的な大激動情勢の把握の上に立って、闘いの路線の深化・発展をかちとった。そして68年夏の全学連大会で決意も新たに「安保粉砕・日帝打倒」を高だかとうち出し、68年秋からの決戦に再び突入していった。

 日本の学生・人民のベトナム反戦の大決起とその全世界への波及は、ベトナム侵略戦争の泥沼化にあえいでいた米帝に大打撃を与えた。65年3月に始まった米地上軍の派遣は65年末の18万5000人から66年末の38万5000人、67年末には48万6000人へとうなぎのぼりに拡大したが、ベトナム人民の抵抗の意思はくじかれるどころかさらに強化されていった。68年の2月には南ベトナム解放民族戦線の「テト攻勢」が南ベトナムの首都サイゴンの中枢部に攻めのぼる戦いとして敢行され、「米軍が優勢」としてきたそれまでの虚構が一挙に崩れた。米の世論は沸騰し、米帝の国内支配体制は崩壊の危機に直面した。追いつめられたジョンソン米大統領は3月31日、大統領声明を発して「北爆の部分的停止」と「パリ和平会談」を提案した。

 だが戦後世界体制の危機の進行は、もはやかつてのジュネーブ会談的な「解決」の道を非現実的なものにしていた。ベトナム侵略戦争とその行きづまりに現れた米帝の世界支配の危機と矛盾の爆発は、新たな世界革命情勢の成熟の始まりを示していた。革共同の「安保粉砕・日帝打倒」は、帝国主義の打倒を大衆的スローガンとして初めて真っ向から掲げたことで、闘う学生と労働者に鮮烈な感動を与えた。それは「安保がなければ日本は侵略され滅ぼされるではないか」という、日帝ブルジョアジーの「安保か亡国か」という惘喝を正面からうち破るものだった。。戦争をやって他国の人民を虐殺することによってしか生きることができない、そんな国家は滅びてしまえlという叫びと決意は、
社・共既成指導部の縛りのもとにあった膨大な労働者大衆の新たな決起を解き放った。

 そして、この「安保粉砕・日帝打倒」と一体でかちとられていった沖縄奪還論の形成・確立は、70年安保決戦を安保・沖縄決戦として大爆発させるなかにこそ、プロレタリア日本革命勝利への具体的・現実的な最短の道があることを明確にした。さらに日本におけるこの闘いは、帝国主義本国におけるプロレタリアートの決起をもって、ベトナム侵略戦争を全世界的な内乱=世界革命へと転化していく突破口を開く位置にあることが明確にされていったのである。

 この闘いは同時に、「激動の7か月」が生みだした一連の反動を全力でうち破ることをとおして発展した。
 全学連の学生が、機動隊の重装備に比べればまったくささやかなものとはいえ、角材と石という「武装」をもって国家権力の暴力を実力でうち破る闘いに立ち上がったことは、日帝のみならず、
労働者人民の闘いを体制の枠内に押しとどめることに腐心してきた一切の政治勢力に衝撃を与えていた。日本共産党は今やその反革命の正体をむきだしにし、闘う学生への公然たる武装襲撃をしかけることに全力をあげ力。議会主義路線にのめり込んでいた共産党はたんなる日和見主義者の集団ではなく、労働者人民の革命的決起をみずから武力で圧殺する武装反革命であることが明白になった。また社会党・総評指導部は全学連に「角材を捨てよ、石を投げるな」と要求し、反戦青年委員会への官僚的統制を必死に強め、それが破産すると反戦青年委そのものの解体を策動した。

 これらの密集した反動は、新左翼諸党派の内部にも動揺を生んだ。社民右派指導部に屈服した社青同解放派などは、カクマルをも引き込んで「右派ブロック」を形成し、闘いを体制内勢力の許容する範囲に引き戻そうと立ち回った。社学同=第2次ブントは「左派」を自認しながら路線的混迷を脱却できず、結局は圧倒的な主流派である中核派への対抗の一点で解放派と野合した。68年7月、解放派とブントは全学連大会への参加を拒否し、独自の「反帝」全学連を名のるという分裂行動へと突き進んだ。

 それはもっと言えば、67年10・8羽田に始まる闘いを
みずから決意し率先して意識的につくりだしてきた者と、この羽田闘争が切り開いた情勢の高揚の波に乗ることで自分自身もまた「革命的存在」であるかのようにふるまってきた諸党派とのあいだの、本質的な違いに根ざしていた。革共同は、日共スターリン主義の反革命襲撃や社民右派・カクマルなどの敵対を断固として粉砕すると同時に、労働者・学生大衆の闘う戦列の統一と発展のために、動揺する他の新左翼諸党派との統一行動・統一戦線をもけっして放棄せずにあくまで追求した。そして、現実の闘争の前進をともに闘いとるなかで、諸党派の誤りにたいして原則的な批判を加え、あいまいさのない理論的・思想的な党派闘争を徹底的に貫いて闘った。
  ▼② 新宿騒乱闘争 134頁
 68年7月全学連定期全国大会は、全国101大学・157自治会から2150余人の代議員・評議員とオブザーバーを結集し、会場の法政大学511番教室を超満杯にして開催された。大会は秋山全学連委員長を再選し、「安保粉砕・日帝打倒」の旗のもと、10・21国際反戦闘争を68年最大の闘争として、全国学生ゼネストで闘う方針を決定した。そしてそこに向かって、日米安保の実体である全国各地の米軍基地への解体・撤去闘争や、米軍物資の輸送阻止闘争に決起していった。そこで最大の焦点に浮上したのが新宿駅を通過する米軍タンク車の輸送阻止闘争だった。

 前年の67年8月8日未明、新宿駅構内で貨物列車同士の衝突によりタンク車が爆発・炎上し、国電1100本が運休するという大事故が起きていた。この事故で、タンク車に満載されていたのがじつは米軍のジェット機用燃料であったことが明るみに出た。横浜市浜安善の石油基地までタンカーで運ばれてきた燃料は、南武線-青梅線というコースと、山手線-中央線コースという二つの鉄道ルートを経由して、立川と横田の米軍基地に運び込まれていた。危険きわまりないジェット燃料を積んだ米軍タンク車が事故当時で一日平均70両、68年夏からは120両も、首都圏の超過密ダイヤの合間をぬって運行され、しかもそのことは一切公表されずに押し隠されていたのである。

 10・21闘争は、この米軍タンク車輸送実力阻止を最大の闘争課題に掲げて闘われた。日帝権力は前日から新宿駅周辺での集会・デモを一切禁止し、全学連・反戦の集会だけでなく、総評と中立労連が予定していた新宿中央公園での集会すらも禁止するという前代未聞の措置をとった。警視総監は談話で都民にたいし「新宿に近寄るな」と警告した。

 さらに闘いの爆発に恐怖した
日共スターリン主義はこれを未然に圧殺するため、中核派の拠点・法政大学を武装襲撃し、全都・全関東から動員した日共・民青の白色テロ部隊による武力制圧下においた。法大襲撃は日本共産党中央=宮本書記長の指導下に組織的に計画され凶行された、スターリン主義の本質をむきだしにした武装反革命だった。こうしたすさまじい闘争圧殺体制を真っ向から粉砕し、学生と労働者数万人が機動隊を蹴散らして新宿駅を占拠する空前の大闘争が作裂した。

 首都圏では当日、法政大・東工大・横浜国大などを先頭に各大学がこぞってストに突入した。国鉄労働者は拝島駅・浜川崎駅をはじめ米タン輸送の拠点10か所で1時間の時限ストに決起、タンク車240両をストップさせた。法政大では日共民青の白色テロ支配を大衆的にうち破って1000人の学内集会がかちとられ、600人がデモに決起した。全学連の部隊は御茶ノ水駅に結集し、代々木駅から線路上をまっしぐらに進撃して新宿駅構内に突入。機動隊を粉砕したのち、東口広場に集まった東京各地区反戦をはじめとする2万の労働者と合流した。会場を明治公園に変更して開催された総評集会に参加した4万の労働者も、解散地点から続々と新宿に合流。駅前一帯は立錐の余地もなく埋めつくされた。学生を先頭に労働者・市民が一体となって再び駅構内に突入し、機動隊を壊走させてホームを完全に制圧した。大勝利だ!・ 現場は喜びにわいた。

 全学連と反戦の部隊が勝利の総括集会をおこなって引き上げた後も、万余の民衆が線路上に残った。逆上した機動隊が襲いかかり、怒った大衆は激しく応戦した。恐怖した権力は深夜零時過ぎにいたってついに騒乱罪を発動したが、一斉検挙」の警告にも人びとは立ち去らなかった。機動隊が群集に突入し、無差別逮捕し、殴る蹴るのリンチを加え、暴虐のかぎりをつくすことでようやく闘いは鎮圧されたのだ。

 この日の闘争は革共同の働きかけにより、右派ブロックの抵抗をも粉砕して、新左翼諸党派の大統一行動として闘われた。中核派の白ヘル軍団による新宿での決起と平行して、赤ヘルの社学同による防衛庁突入闘争、青ヘルの解放派による国会突入闘争が展開された。これらを合わせた逮捕者は736人にのぽり、うち310人に騒乱罪が適用された。

 全学連・反戦や総評などの集会こアモは全国564か所でおこなわれた。国鉄労働者を先頭に全金・全港湾など17単産・80万人がストライキで決起した。関西では、日共・民青の敵対を粉砕して京都大学でのバリケードストライキがうち抜かれ、全関西の学生・労働者が権力のデモ禁止令をうち破って大阪・御堂筋での数万の実カデモをかちとった。広島では、学生大会での6時間の白熱した討議の末にスト突入を決定した広島大学が1500人の学内集会・デモをかちとり、さらに呉の黄幡弾薬庫に進撃して基地内に突入した。福岡では、九州人・西南大などを先頭に1000人が板付基地にデモし、基地ゲート前で官憲との激突を繰り広げた。

 
10・21闘争は、「激動の7か月」をもはるかにこえる日帝権力との内乱的大激突の出発点となった。
以後、闘いは69年・70年・71年と疾風怒濤の勢いで進んでいく。
(2節) 日大・東大闘争の爆発   137頁
 10・21新宿騒乱闘争からIか月後の11月22日、東大構内で、2万人の大集会と学内デモが闘われた。
当時、反戦・反安保闘争と平行して闘われていた全国学園闘争の頂点に立つ日大闘争と東大闘争が、この日初めて合流した。東大闘争を「話し合い解決」=当局への妥協と屈服によって収拾しようとしていた日共・民青の策動を粉砕して、逆に大学を安保粉砕・日帝打倒の砦としていく闘いがここから決定的に始まった。

 この数年前から高崎経済大学や慶応大学、早稲田大学などを先頭に始まっていた全国学園闘争は、68年に入って東大医学部での研修医(インターン)制度改悪反対の無期限スト、マンモス大学・日大での不正経理発覚を引き金とする総長退陣要求のバリケードストとなって激しく燃えあがった。東大では山本義隆議長、日大では秋田明大議長のもとに全学共闘会議(全共闘)が結成され、闘いは東大3万、日大10万学生のすべてを巻き込む大闘争へと発展した。

 その本質は、侵略帝国主義への飛躍をとげつつあった日帝のもとで進行した大学の政治的反動化と腐敗にたいする、学生の怒りの爆発にあった。戦後の大学はかつての侵略戦争への反省から、大学を政治権力の直接支配から相対的に独立した空間として確保する「大学の自治」を掲げた。それを支えたのが学生自治会の存在と闘いであった。だが60年代以降、この大学自治解体の攻撃が激化し、大学当局と政権・資本との癒着・腐敗が始まり、学問の自由などの形骸化が進展する。これへの怒りが高まり、その頂点で爆発したのが日大・東大闘争だった。

 日大では、古田会頭をトップとする体制のもとで資本と提携した大学教育の営利事業化が「日大株式会社」と呼ばれるほどに進められた。高度成長下の日本経済が必要とした中級技術者を大量に養成し商品」として企業に売ることを目的に、日本一と言われるマスプロ教育が展開された。学生の思想・表現の自由や権利はすべて奪われ、反共主義と右翼体育会の暴力による学内支配のもとで声ひとつ上げられない状態が全学生に強制されていた。今日の新自由主義大学はまさにその「再現」であるとさえ言える。そのなかから68年5月、34億円もの使途不明金の発覚を契機に大学の不正・腐敗を糾弾し、古田体制打倒を求める決起が200人のデモとして始まり、あっという間に全学に燃え広がった。

 学生たちは木刀や日本刀をもふりかざして襲いかかる右翼・教職員と一歩も退かず対決して闘った。
当局がさし向けた機動隊を自分たちの救出に来たと勘違いして最初は拍手で迎えた日大生は、それが右翼の暴力ではなく学生のデモを鎮圧するためであると知って驚き、国家権力の正体を一瞬にして体で理解した。権力・右翼の一体となった暴力と対峙して闘うため、日大全11学部・14校舎のすべてが次つぎと無期限のバリケード封鎖・占拠闘争に突入した。

 不退転の闘いは9月30日、ついに古田を大衆団交の場に引きずり出した。日天両国講堂を超満杯にした2万の日大生は、「古田を倒せ!」「大学はおれたちのものだ!」「もうがまんできない、日大を日大生の手でつくりかえよう!」と叫んだ。この場で古田は最終的に弾圧への自己批判書を読み上げ、全理事の退陣と検閲制度の撤廃・集会の自由など学園民主化を確約する文書に署名・捺印した。勝利の大歓声がわき、紙吹雪が飛んだ。

 だが夜明けた翌日、佐藤政権は首相みずから「これは人民裁判だ。断じて認められない」と発言し、国家権力を総動員して日大闘争をはじめ全大学闘争の圧殺にのりだすことを指示した。古田は9・30の確約書を反故にして居座った。もはや
大学闘争はたんなる学内問題ではなくなり、日帝の階級支配を根幹から揺るがす闘いとして、日帝権力中枢との絶対非和解の激突に発展した。
  ▼① ▼大学を安保粉砕・日帝打倒の砦に  138頁
 東大では医学部に始まった闘いが全学無期限ストに発展していた。それは、戦前・戦後をとおして高級官僚をはじめとする日帝支配階級の卵を養成する機関として存在してきた「東京帝国大学」の歴史と現在を根底から問いなおし、覆す闘いとなっていた。
これに真っ向から敵対し、
日大における右翼と同じ役割を担って登場したのが日共スターリン主義だった。日本共産党は「暴力学生の学園からの排除」の一点で大学当局と結託し、その最先兵となって、鉛の芯を入れた木刀で武装した特別部隊を編成して東大に送り込み、全共闘への襲撃を開始した。

 11・22闘争は、権力の弾圧と日共スターリン主義の反革命武装襲撃にたいする闘う全学生の反撃の出発点として、全党派の一大統一行動として闘われた。その先頭には日大全共闘5000と全学連・中核派2000の大部隊が立った。とりわけ、当局・右翼の殺人的暴力にも権力の大弾圧にも一歩も退かず全学バリストで対決しつづけてきた日大との合流は、東大闘争の質をも一変させた。「東大をつぶしていいのか」という恫喝の前に生じていた一部の動揺は、「こんな大学などつぶれた方がまし」と言い切る日大生の、現状にたいする徹底した否定と破壊の思想に接してのりこえられた。そしてこの「破壊の思想」は、中核派の「大学を安保粉砕・日帝打倒の砦に」のスローガンと結びつくことで新たな生命力を獲得し、
大学闘争を一挙に70年決戦の最前線へと押し上げた

 
69年1月18日から19日にかけて闘われた東大安田講堂をめぐる壮絶な決戦は、まさにその頂点だった。
18日早朝、日帝権力は完全武装の機動隊8500人と大量の放水車、ヘリコプターにピストル部隊まで動員して東大のバリケードに総攻撃をしかけた。1万発の催涙弾が、「学生の頭を狙え!」という殺人的指揮のもとに撃ち込まれた。安田講堂・法学部研究室・工学部列品館・医学部などに立てこもった約1000人の学生はこれを火炎ビンと石で迎えうち、19日午後5時50分までじつに35時間にわたる死闘戦を闘いぬいた。日本中の労働者人民が終日、生中継されたテレビに釘づけになった。安田講堂のてっぺんにある時計台からは不屈のアジテーションが周辺一帯にとどろき、聞く者の魂を揺さぶった。
龍城部隊の英雄的闘いに呼応し、万余の学生が神田駿河台、御茶ノ水、本郷一帯の路上にバリケードを築き、ここでも機動隊と激しく闘った。テレビにかじりついた労働者人民は、反戦派労働者を先頭にいてもたってもいられず街頭に飛び出し、この闘いに合流した。

 19日夕刻、戦闘終結の直前、時計台放送は次のように言ってその幕を閉じた。「全国の学生、市民、労働者のみなさん。われわれの闘いはけっして終わったのではなく、われわれに代わって闘う同志の諸君が再び解放講堂から時計台放送をおこなう日まで、この放送を中止します」。籠城戦士は最後に澄みきった声でインターナショナルを合唱し、決意のシュプレヒコールをあげた後、全員逮捕された。その後も街路での大衆的戦闘は深夜まで続いた。

 2日間の激烈な闘いは、敵対する一切の勢力の仮面を容赦なく引きはがした。日共・民青が右翼学生および大学当局と公然と組んで展開してきた「闘争終結」策動は、機動隊導入への水先案内役だったことが満天下に明らかとなった。日共スターリン主義と同時に、その犯罪的正体をだれの目にも明らかにしたのがカクマルだった。国家権力との激突をひたすら恐怖していたカクマルは、東大全共闘の掲げる「東京帝国主義大学解体」のスローガンを「革命主義」だとして拒否し、当局と日共によるペテン的な「学内解決」=闘争収拾策動にひそかに期待を寄せていた。それが粉砕され
、18日からの決戦が不可避となるや、その直前にカクマルが分担していた法文2号館をみずから明け渡して敵前逃亡したのである。この決定的な裏切りは、彼らが完全な反革命に転落していく出発点となった。

 日帝権力は機動隊の暴力で東大構内を制圧したが、学内秩序の回復はできず、東大の歴史始まって以来の入試中止に追い込まれた。続いて京大・阪大・東工大・横浜国大・立命館大・群馬大・富山大・広島大・岡山大をはじめ
全国の大学が続々とバリケードストライキに突入した。当時の大学約380校のうち68年には39校がバリケード封鎖・占拠闘争に突入していたが、69年にはその数は140校に急増した。闘いの炎は全国の高校にも波及した。大学闘争は永続化し、70年安保決戦と結合してさらに発展した。
読み合わせわして各自、

空気が入って任務に就く。

電話かけの人は空気・パンパンです!
昼食は全部・冷凍パスタ。最低やね
差し入れ豚肉、厚揚げ
ソーキ煮のスキ焼 差し入れ・1枚200円の高級牛肉 三里塚の小松菜のおひたし
ナス・見ようが即席漬け 差し入れ・煮物 差し入れ・漬物
帰国した中国人から差し入れ・・・鶏のモミジ煮
三里塚の薩摩芋でご飯 カズ君登場。杉並区民だって!!

高円寺商店街で練り歩きを行いました
椎名千恵子さん「命の側に立っているのが鈴木たつおさん
です。石原のぶてるは命を冒涜しています。」
被曝労働と闘う動労水戸組合員「非正規労働者と共に
闘っているのは鈴木たつおさんだけです。ぜひ国政に
送り出しましょう。」
無実の政治犯・星野文昭さんのお連れ合い・暁子さん
「戦争・非正規・解雇、この生きにくい社会を変えていき
ましょう。弁護団長の鈴木たつおさんとともに星野文昭
さんを取り戻しましょう
労組交流センター女性部・辻川あつ子さん「闘う労働組合を
一貫して支援し、共に闘っているのが鈴木たつおさんです。
最後は金目の石原のぶてるをぶっ倒しましょう。」
福島の椎名千恵子さんより鈴木たつお応援演説。
「3・11反原発福島行動に来て、フクシマの怒りの
先頭に立ってくれているのが鈴木たつおさんです。」


全学連福島ブログ


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『 団 結!2008』

『ジュゴンとオバァ』(2007年・全編) 富田晋の青春

三里塚芝山連合空港反対同盟 動労千葉 星野さんをとり戻そう!全国再審連絡会議 労組交流センター
 動労千葉を支援する会
3・14法大弾圧を許さない法大生の会
北島邦彦の「すぎなみ未来BOX」
とめよう戦争への道!百万人署名運動
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