同じころ、沖縄現地でも巨大な闘いが爆発しようとしていた。
68年11月10日、沖縄で初の主席公選が実施された。米民政府による任命制の主席から公選への転換は、67~68年の闘いで沖縄県民が実力でかちとったものだった。選挙は、復帰協を代表して出馬した屋良朝苗候補と「基地がなくなればイモとハダシの生活に戻る。それでもいいのか」と主張した保守候補との一騎打ちとなり、屋良候補が大差で勝利した。その直後のい11月19日、嘉手納基地からベトナムに出撃しようとしたB52が墜落、爆発・炎上する大事故が起きた。現場は核兵器が貯蔵されている知花弾薬庫のすぐそばであり、爆発の火がもし燃え移れば沖縄全島が壊滅していた。B52爆発を「交通事故と同じ」と暴言を吐いて居直った米軍と、米軍に抗議もせず「沖縄県民は基地の重要性を理解している」とうそぶく日帝・佐藤政権に沖縄の怒りは沸騰した。
12月には県労協など139団体が参加して「生命を守る県民共闘会議」を結成。「B52撤去一切の核兵器撤去」を掲げて、B52の嘉手納基地常駐開始からI周年を迎える2月4日に沖縄全島ゼネストを闘うという方針がうち出された。文字どおり水道も電気もすべてを止めるストとして準備が進んだ。69年1月12日には、沖縄最大の組合である全軍労がついに米軍による争議禁止の命令をけって、臨時大会を開いてゼネストヘの合流を決定した。出席代議員237人中、賛成223人、反対13人、白票1人という圧倒的多数の決定だった。
全軍労は2万人をこえ、沖縄の組織労働者の半数近くを占めていた。当時の県労協4万4000人の中心は、2万の全軍労と1万2000の教育労働者だった。そして基地労働者がゼネストに突入すれば、沖縄の基地機能は完全に停止する。恐怖した米軍は新たに「総合労働布令」を発布して組合活動への弾圧を強化するとともに、「スト参加者は全員解雇」の恫喝をもってスト圧殺に全力をあげた。日本政府もまた、東大闘争に続いて沖縄での大反乱が起きれば政権の崩壊に直結するとの激しい危機感をもち、総評指導部をだき込んでスト回避の工作に必死となった。日帝の意を受けた総評の政治局長が本土から沖縄現地にのりこみ、大激論の末、屋良主席の中止要請と県労協議長・亀甲康吉、全軍労委員長・上原康助の屈服によって2月1日、ゼネストは土壇場で中止された。労働者の中には、悔し涙と行き場のない怒りがうずまいた。 |