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6月29日(日) | ||
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結集は650名! |
「街」に戻って夕食&交流会 |
新宿駅前で男性が焼身自殺図る? 集団的自衛権で抗議か |
男性は60歳くらいで背広姿。ガソリンとみられる液体の入ったペットボトル2本と拡声機などを持って、地上約10メートルの歩道橋の屋根部分によじ登り、午後1時ごろに演説を始めたという。火は消防の救急隊員らによって消し止められた。 |
このニュースを聞いて、1967年の事件、... 老エスペランチスト・由比忠之進さんの焼身自殺のことを思い出した。 僕はまだ19才だった…衝撃が走った。 |
だが、66才の僕は今、断言できる!!
安倍戦争政治は、「絶望」=労働者の「分断」を組織する。 しかし、マルクス主義者は『希望』=労働者の「団結」を組織する、と。 1967年は星野文昭さんが闘っていた時代だ! そして1971年11・14渋谷暴動闘争があった。 労働者は「分断」攻撃をはねのけ、 「生るために団結して」勝とうじゃないか!!! ------------------------------------------------ 『われ炎となりて――あるエスペランチストの抗議』 http://www.econfn.com/iwadare/page170.html 南ベトナム派遣の軍隊を増強し、北ベトナムへの爆撃に踏み切った米国。その米国のベト ナム政策への支持を打ち出した日本政府。それへの抗議から、日本でもいっきにベトナム 反戦運動が広がりをみせる。その中で、佐藤首相の南ベトナム訪問を実力で阻止しようと羽 田空港に全国から集結した反代々木系学生によって引き起こされたのが第一次羽田事件 だが、その直後にも、ベトナム戦争をめぐる事件や出来事が連続的に突発し、日本社会を 揺り動かす。 その日、都心は騒然としていた。1967年11月11日。翌12日に 沖縄返還交渉のための佐藤首相の米国訪問が予定されていたことから、羽田空港でこれを 阻止しようと全国から反代々木系学生約3000人が都内の大学に集結しつつあったからだ。 そればかりでない。革新陣営による訪米反対デモが永田町の首相官邸周辺に波状的に押し 寄せていた。警視庁も街頭に警官を配備するなど警備態勢をしき、都心には緊迫感がただ よっていた。 社会部周辺がざわめいていた。首相官邸近くで老人が焼身自殺を図ったという。重体で、 虎の門病院に収容されたとのことだった。とっさに私の脳裏をかすめたのは、南ベトナムで の僧侶の焼身自殺だった。ベトナム戦争が激化するにつれて、南ベトナムでは、米国のベト ナム政策と南ベトナム政府の仏教徒弾圧に抗議して僧侶が焼身死するケースが後を絶た ず、その火焔に包まれた僧侶の映像が日本にも伝えられていたからだ。「ついに日本でも… …」。私は、ベトナム戦争と日本の距離が急に縮まったような衝撃を受けた。 病院に収容されていた老人は翌12日午後3時55分、死亡した。横浜市保土ヶ谷区 在住の弁理士、由比忠之進さん。73歳。死因は気道熱傷閉塞と肺水しゅとされた。 由比さんは11日午後5時50分ごろ、首相官邸前の交差点わきの歩道で、胸にガソリ ンをかけ、マッチで火をつけた。一瞬、全身、炎に包まれ、仰向けに倒れた。通りかかった人 や近くにいた警官が通りがかったタクシーの消火器や官邸備え付けの消火器で消し、近くの 虎の病院に運んだが、頭、顔、胸など上半身に大やけどをしていた。上着は焼けてボロボ ロ。髪はほとんど燃え尽きていた。 由比さんがもっていたカバンの中には「内閣総理大臣佐藤栄作閣下」とボールペンで書か れた首相あての抗議書があった。そこには、こう書かれていた。 「佐藤総理に死をもって抗議する。政治資金規正法の答申は尊重すると何度言明されたこ とか。しかるに案が出るや自党の圧力に屈して廃案とし、恬として恥じない首相は、私の如き 一介の庶民が何を訴えても何の効果も期待できないことは百も承知しながらもはやがまんで きない。 |
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映画『A2-B-C』予告編 |
タイトルにある「A2」「B」「C」は、甲状腺に発生した嚢胞(のうほう)や結節(しこり)の 大きさに応じた検査の判定結果のこと。 |
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