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2014年日誌
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スケジュール
12月26日(土)
例によって、東京北部ユニオンと合同でやります!
午後4時~8時 終了予定だが、済まないだろうな  
参加費 1.000円
去年の忘年会は、こちら


 facebook も見てください!


12月19日(金)
昼食は残り物でシーフード・
塩やきそば

夕食は豆乳鍋 塩麹キノコに漬けた鶏ソテー
差し入れの鰊の糠漬け 豆苗炒め 差し入れのリンゴ
9章 70年安保・沖縄決戦の爆発 110頁
 3章 日帝権力との内乱的大激突   130頁
(1節)騒乱罪攻撃とその突破
(2節) 日大・東大闘争の爆発   137頁
(3節) 沖縄と本土の結合   140頁
(4節) 労働者階級が闘いの前面に
 今日の連続・朝勉はここから (5節) 「日帝打倒」への炎     159頁 
 69年11月の佐藤・ニクソン会談と日米共同声明は、「72年沖縄返還」政策の内実が、沖縄の怒りの圧殺と帝国主義軍事同盟としての日米安保のエスカレーションにあることを満天下に明らかにした。それからわずか半月後の12月4日、労働者人民の怒りをさらにかき立てる事件が起きた。米軍当局が基地労働者2400人の大量解雇を発表したのである。しかもこれは第1弾で、最終的には1万人規模になるとされていた。

 この解雇は日米共同声明で合意した「72年返還」にともなう攻撃としてしかけられた。屋良主席や復帰協指導部は「基地縮小のためならやむをえない」と、解雇を容認したうえで「離職者対策」を本土政府に求めた。だが「基地縮小」などとんでもないペテンであることは明白だった。米軍の狙いは軍に忠誠を誓わない労働者を基地内からたたき出し、より従順な労働者に入れ替えることにこそあった。その証拠に、他方で大量の下請け労働者の新規募集をおこない、新採用者には条件として、「全軍労に加盟しない」「年休・病体や一時金は要求しない」「予告なしの解雇にも応じる」などという許しがたい誓約書を書かせていた。

 沖縄ではほとんどの土地が基地に奪われ、基地に依存する以外に他の産業など成り立たない構造を強いられている。沖縄における最大の「基幹産業」とは基地であり、労働者には基地で働くしか生活の道がない。百万沖縄県民にとって基地労働者1万人の首切りは、本土でいえば100万人の首切りにも匹敵する。解雇されれば文字どおり、家族全員が路頭に迷う以外にないのである。だからこそ全軍労の労働者にとって、「基地撤去」は簡単に掲げられるスローガンではなかった。だれもが戦争を憎んでいたし、まただれもが米軍によって奴隷のようにあつかわれることに耐えがたい思いをいだいていた。しかし、基地がなくなれば自分たちの生活基盤もなくなる。この矛盾と葛藤のなかにいた基地労働者の根源的な怒りをついに解き放ったのが、このとき仕かけられた「基地の維持・強化のための大量首切り」という攻撃だった。本土における反戦派労働者の命がけの決起への感動も、その後押しをした。

 70年1月、全軍労は解雇撤回を求めて第1波48時間、第2波5日間のストライキに立った。非組合員を含めて3万人が参加し、全基地ゲートにくまなく1万人によるピケが張られた。とりわけ1月19日から23日の5日間にわたって闘われた120時間の大ストライキは、基地機能の停止に悲鳴を上げる米軍による武力弾圧との激突となった。

 米軍はカービン銃で武装した米兵を直接さし向けるだけでなく、Aサイン業界(米軍の許可を得て基地周辺で営業する飲食店・風俗店)のボスが動員した右翼・暴力団を使ってピケ隊を襲撃させた。武装米兵・機動隊・右翼暴力団の一体となった襲撃から身を守るため、青年労働者を先頭に、ピケに立つ全組合員が色とりどりのヘルメットをかぶり、角材や鉄パイプで武装して闘った。激突の発展に恐怖した全軍労幹部による収拾工作を下部労働者は一瞬にして粉砕し、5日間のストを最後まで貫徹した。組合幹部による官僚支配と割り当て動員という体制内組合のあり方を一変させて、一人ひとりの組合員が心底からの怒りに燃えて決起し、身銭を切って闘う労働組合の本来の姿がそこに生きいきとよみがえっていた。

 全軍労の青年労働者はこのなかで、2月4日の牧港支部青年部結成を筆頭に、青年部を次つぎと結成した。牧港補給基地(現在の浦添市キャンプキンザー)は当時の米陸軍の極東最大の総合補給基地で、膨大な倉庫群が立ち並び、嘉手納基地とならんで基地沖縄の中心に位置していた。その中心メンバーは
反戦青年委員会の旗のもとに結集し、最盛時には1万に達する白ヘル牧青軍団を登場させた。

 米軍当局は2波のストにたいして大量の報復処分を出した。これにたいして全軍労反戦派は3月13日、不当解雇された牧港支部執行委員の太田隆一さんを先頭に実力就労闘争に立ち、基地内への立ち入りを阻む武装米兵・機動隊と激突した。「一人になっても闘う」と決意し、殴られて血を流しながらも繰り返し米兵の阻止線に突っ込んだその闘いは、基地内のあらゆる職場の労働者に口から口へと感動をもって伝えられた。「労働者は死んではならない。死すべきは基地だ!」というその訴えは、全労働者の魂を揺り動かした。自分が首を切られて追い出されようとするそのときこそ、決然と立って逆に米軍を基地の外にたたき出し、基地に奪われてきたすべてを奪還すべきである。それは、基地で働き戦争に協力することによってしか生きられない基地労働者が、逆に基地を内部から解体し、帝国主義を打倒して全社会の革命的変革を実現していく輝かしい主体へと、自分自身を飛躍させていくことを意味していた。この「解雇撤回・基地撤去」のスローガンは大反響を呼び、体制内指導部との鋭い緊張と党派的分岐・対立を急速につくりだすものとなっていった。 
▼② 牧港青年部の闘い    162頁
 1970年6月、安保条約は自動延長された。70年秋には沖縄の戦後初の国政参加選挙が実施され、69年日米共同声明での合意にもとづく「72年返還」へ向けての準備が開始された。社・共、総評指導部など本土の既成左翼や復帰協指導部はこれによって「沖縄闘争は終わった」とし、日米帝の「返還」政策を前提とした改良要求の運動へとかじを切った。カクマルはその最先兵として登場した。

 こうしたなかで、分裂と解体の危機にさらされている沖縄現地の闘いのエネルギーを再結集させることが求められていた。その軸となったのが、牧港青年部の闘いであり、これと固く連帯した本土の反戦派労働者・学生の決起であった。

 70年12月20日、コザ市(現沖縄市)で米軍支配にたいする沖縄の怒りが爆発した。飲酒運転をしていた米兵の車が人をはね、その事故処理にあたったMP(米軍憲兵)が集まった群衆を解散させようと威嚇発砲したのが引き金だった。それまでも日常茶飯に起きていたこの事件が、あっという間に5000人の大暴動に発展した。基地が集中する沖縄本島中部の、基地に寄生して生きる典型的な町だったコザで、民衆が米軍の車を焼き討ちし、基地内になだれ込んで火を放ったのだ。それは、耐えがたきを耐えさせられてきた沖縄県民がついに「忍従の鎖」を断ち切って、その憤怒を爆発させた瞬間であった。

 コザ暴動の翌日、米軍は新たに3000人の大量解雇を発表した。これにたいして全軍労は71年2月から4月にかけて、3波の全面ストに決起した。その原動力となり、最大の牽引車として登場したのが牧青である。このストは解雇撤回闘争であるだけでなく、コザ暴動によって火がついた全県民の怒りを体現し、
沖縄社会全体をまきこんだ反戦・反基地・反権力の闘いへと発展した。牧港青年部は、右翼暴力団=民間反革命を総動員した暴力的なスト圧殺攻撃の前にたじろぐ指導部をのりこえて、唯一、独自の武装部隊を組織してピケの実力防衛を貫徹した。牧青行動隊が民間右翼の襲撃を独力でうち破ったことが全労働者に勇気を与え、「牧青に続け」の声のもと、ストは第1波から第2波、さらに第3波へと継続し拡大していった。

 4月15日の第3波ストは、県労協13組合との統一ストとして打ちぬかれ、4万5千人が決起した。スト参加者は機動隊と右翼がその暴力でいったん反革命的に制圧していたコザ市内に攻め込み、1万数千人のデモで市内を席巻し、コザ市を実力で奪還した。このデモに参加した全軍労組合員の8割がヘルメットをかぶった。牧青に続きマリン支部、エックスチェンジ支部にも青年行動隊が結成され、大量の白ヘル部隊を形成した。

 コザ暴動を受けついだ全軍労の大ストライキは、既成指導部の中に広がっていた敗北主義と闘争終結策動をはねとばして、沖縄返還協定との全面対決を再び焦点化させた。闘いは71年5月19日ついに、69年2・4ゼネストの中止をのりこえる、返還協定反対の全島ゼネストとなって爆発した。14日の全軍労臨時大会は99・58%の絶対多数の賛成でスト権を確立し、一切の軍事基地撤去」を組合のスローガンとして掲げることを決定した。全軍労反戦派の「死すべきは基地」の思想が今や全組合員を獲得したのである。

 この全軍労を中軸に5月19日、沖縄全島が赤旗で埋めつくされた。同盟系労組のごく一部の脱落をのぞき、54組合・6万1000人が決起した。そのうち県労協傘下の31組合が24時間ストに立った。さらに、バリケードストライキで決起した沖縄大学を先頭に、学生・高校生・農民・商店主・宗教団体・女性団体が合流した。160におよぶ米軍基地群が牧港を中心にして完全に機能を停止した。決起した労働者は軍用道路1号線(現国道58号線)を封鎖・制圧する10万のデモで米民政府へと進撃し、機動隊を粉砕して米民政府を包囲し、隣接する牧港基地ゲートのバリケードと金網を破壊して基地内に突入した。

 牧青の闘いは、全軍労中央との路線対立をはらみっつ、7月の毒ガス移送阻止闘争をへて、71年秋の返還協定批准阻止闘争へと全体を牽引していった。毒ガス移送は、沖縄県民の毒ガス撤去の要求に追いつめられた米軍がなんの安全措置もとらないまま、知花弾薬庫から北太平洋のジョンストン島への移送を強行して「撤去」の形をとりつくろうとしたものだった。全軍労本部が闘争方針を出さないなかで牧青は、知花弾薬庫で働く基地労働者と周辺住民の「命を守れ」の叫びに応えてAMMO分会の独自ストを組織し、ともに闘った。
▼③ 敗北主義・召還主義との対決   164頁
 沖縄現地の闘いがこのように、既成指導部の制動をものりこえて日米帝との非和解的激突へと進んでいったのにたいし、本土では、許しがたい状況が支配していた。社会党・共産党やカクマルは、すでに日帝に完全屈服して返還協定との闘いを一切放棄していた。それだけでなく、「革命的左翼」を名のる諸党派の中においても、中核派をのぞく他の一切の党派が、「72年返還で沖縄問題は解決する」という日帝ブルジョアジーの大宣伝の前に屈服し、もはや”闘っても勝てない”として沖縄闘争からの召還を開始していたのである。

 69年10-11月の決戦は、「72年返還」のペテンによって沖縄の怒りを抑え込み、「城内平和」をつくりだそうとした日帝・佐藤政権に痛打を浴びせ、70年~72年過程をいっそうの激動にたたき込んだ。労働者階級本隊はもとより、かつてなく膨大な人びとが決起を開始し、69年秋の決戦を闘った中核派に期待を寄せ、革共同に労働者階級の前衛党としての指導力を求めていた。70年6月、デモヘの参加者が60年安保闘争を上回る規模に達し、しかもその隊列が60年当時のような社・共・総評による囲い込みを大きく突破して革命的左翼のもとに大結集したことは、そのことを示した。だが革共同は、膨大な血と汗と犠牲を払って日帝の大攻撃をはね返し、階級闘争の最先端に躍り出る地平をもぎとったが、69年をこえる闘いをただちに提起し実現するだけの力はまだもっていなかった。

 さらに、70年7・7の在日中国人青年の批判に始まる革共同への鋭い問題提起は、革命的共産主義運動が真に全階級・全人民を獲得してプロレタリア革命の勝利へ向かって進むためには、よりいっそうの巨大な飛躍と自己変革が求められていることを示していた。

 こうして、革共同が次の決戦を闘いぬくための準備となる格闘を必死にやりぬいているなかで、「日米共同声明をもって沖縄闘争は基本的に敗北し決着した」と主張する敗北主義・日和見主義の潮流が頭をもたげた。彼らは「沖縄奪還」のスローガンを「民族主義」として否定し攻撃したが、それは沖縄の「本土復帰・基地撤去」の要求が現に日米帝との最も鋭い対決点を現に形成し、日帝の体制的危機の根源となっていることをまったく無視するものだった。そして5・19ゼネストまでのぼりつめた沖縄の闘いを”どうせ最後はナショナリズムにからめとられる”などと蔑視して切り捨て、まったく無内容で観念的・空論的な「沖縄解放」論をそれに対置した。
 それは現実の階級闘争、すなわち労働者人民の命と生活に真に責任をとろうとする姿とはほど遠いものだった。〔今日流行の沖縄独立論も、その本質はここに根ざしている。〕

 革共同はこうした敗北主義・召還主義を粉砕して、5・19沖縄ゼネストに連帯し、71年5~6月の返還協定調印阻止闘争を全力をあげて闘った。とりわけ6・17闘争の爆発は首都を再び騒乱状態にたたき込み、機動隊との市街戦においても新たな地平を切り開き、沖縄―本土を貫く大決起となって、調印式を痛撃した。

 これにたいして社・共やカクマルは闘いの内乱的発展に恐怖し、公然と敵対した。さらに社青同解放派が全共闘・全国反戦の統一行動から脱落・逃亡して宮下公園での分裂集会を開催し、フロントやブント日向派などとともに右派ブロックを形成した。分裂集会の会場の名をとって「宮下右派」と呼ばれる。それは、彼らが日共・民青やカクマルと同様に帝国主義との正面対決に恐怖し、「帝国主義打倒」の立場に立っているかのように見せかけながら実際にはそこから逃げて、体制内での改良を求める「戦闘的」改良主義者でしかないことを自己暴露するものだった。71年7月の米大統領ニクソンによる訪中声明=米帝の対中国政策の電撃的な転換も、こうした連中の安保・沖縄闘争からの逃亡に拍車をかけた。蒋介石政権ではなく毛沢東政権を中国の正式な国家と認めたこの転換は、ベトナム侵略戦争の泥沼化に追いつめられた米帝が、北ベトナムヘの影響力をもつ中国スターリン主義との取り引きによってその危機を打開しようとしたものだった。だが、帝国主義の危機の深さを認識できない者にとっては、ベトナム戦争の「終結=平和」に向かう動きとして錯覚されたのである。

 これら一切の敗北主義・日和見主義を粉砕して、71年秋の返還協定批准阻止闘争を、本土と沖縄を貫く大決起として再びつくりだすことが求められていた。そこへの全力をあげた新たな挑戦が始まった。

 明日は、ここから ④ 三里塚強制代執行阻止の決戦   166頁


12月18日(木)
雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしはなりたい
署名をやり続けます
昼食は差し入れ・豚肉の生姜焼き 差し入れ・厚焼き卵。 差し入れ・下仁田ネギ
三里塚のホウレン草をトッピング
差し入れの・鰊の糠漬け
夕食は、三里塚の冬瓜を動労千葉
物販・昆布・ドンコの労農同盟煮。
差し入れ・北海道小5セレクト・ホッケを焼いて。
韓国のりの差し入れ お客さんからお酒の差し入れ 延々10時近くまで大討論会
「街」では、「信頼のメカニズム」を今、学習中です。
信頼される人になるため、そして何より、2015年に向けて、一人一人が各々の責任を担っていくためです。
少しずつ、メカニズムを提起しあい、お互いの考えを話し合いながら進行中です。
 「人間関係と信頼」。今「街」が実際に抱えている課題を乗り越えるために、「信頼とは何か?」について議論している。『50年史』や各文献の中には、直接このことを扱ったものはない、当然のことだけど。中野洋さんの『俺たちは鉄路に生きる』の中でふれているのかなぁ? 調べてみよう。

 「団結の究極の拡大が革命」。「団結」の元となる「信頼(関係)」はどう作ったらいいのか。ネット検索してみたが、ほとんど見当たらない。止まれ! 「街」は「精神障害者」を中心とした作業所で、「人間関係」について20数年の格闘の歴史がある。格闘の歴史があるから、「街」があると言ってよい。

 ネット検索の中で「信頼されるリーダーの13の行動」というのに当たった。ブルジョア経済学者が資本家のために書いたものだから問題点が多いが、学べる点も多々ある。超長文ですが、一読して下さい。

 ちなみに今週の「前進」(団結広場・全学連・神崎さん)の投稿には学ばされた。「ちゃんと面と向かって議論し、団結と信頼を日々作っていく作業は・・・歴史の中で数多くの闘いを闘ってきた革共同だからこそできることである。
「信頼されるリーダーの13の行動」は、コチラです

【港湾労使交渉】マックポテトSサイズ統一の背景

2014.12.15http://kaerukun6.com/potato-189

米西海岸での港湾労使交渉長期化が、日本のマクドナルドにもダメージを与えています。
アメリカでは何が起こっているのでしょうか。

ポテトの安定供給を妨げる原因となっている港湾労使交渉は、今年の5月12日から始まりました。

現在、アメリカでは海運会社などで構成する太平洋海事協会(PMA)と港湾労働者でつくる国際港湾倉庫労組(ILWU)が対立している状態にあります。

PMAは「ILWUが恣意的に港の作業を遅らせている」と非難し、
ILWUはPMAの主張に対して「メディアを使ったゆさぶり」と強く反発、
「貨物量が明らかに機材・人員的にキャパシティを超えている」と主張しています。

アメリカの好景気もあってか、クリスマス需要が終わった時期になってもなお、
西海岸の港湾では多くのコンテナが輸送されないまま山積みにされています。

未だにこの混乱の収束の目途はついておらず、少なくとも年内での解消はほぼないと見られます。
2月頃まで収まらないことも、覚悟しておいた方がいいかもしれません。

西海岸の港湾施設は、米国の貿易の2/3を担う大拠点

 
 

 

 だ  ん   け  つ  2014年12月18日 
 
1018
東京北部ユニオン
リサイクルショップ「街」分会
関町北4-2-11
 電話 3928-1378
三里塚反対同盟が
第20回の空港周辺一斉行動
 12月23日、三里塚芝山連合空港反対同盟と三里塚支援連絡会議は、20回目を数える成田空港周辺地域での一斉行動を行った。

 午前8時30分、市東孝雄さんの天神峰の畑の南側で旧小見川県道に面して立つ看板のもとに反対同盟が集合。12月10日に「第3滑走路粉砕!」「農地取り上げ許さない」とリニューアルされた看板のもとで写真撮影が行われた。反対同盟が2015年の決戦を闘う意気込みそのものだ。

 続いて市東さん宅の離れで、打ち合わせを行った。この日準備された「反対同盟ニュース」第15号は、第1㌻で東峰の萩原富夫さんからのお礼とあいさつとして、農地取り上げ反対署名が地元地域から約1000筆を得て合計で1万8千筆を超えたことを報告し、「第3滑走路建設計画」にともに反対の声を上げることを訴えている。
 また、LCC(格安航空)の重大事故報道、安倍政権の特定秘密保護法施行への弾劾、住民の声など盛りだくさんの内容になっている。

 北原鉱治事務局長があいさつし、成田空港会社(NAA)が反対同盟に対して新たに起した「やぐら、看板を撤去せよ」との訴訟について、第1回弁論が2月半ばに予定されていることを怒りを込めて報告し、一同の奮起を促した。
 これを受けて直ちにそれぞれが担当する地域へ向かって飛び出した。北原さんは寒気をものともせず、本三里塚でスポット演説に立ち、「地元になんら説明もなされず進められようとしている第3滑走路建設計画は、騒音被害をまきちらし、住民を追い出すもの。絶対に許してはならない」と力強くアピールした。

 婦人行動隊の宮本麻子さんは、川上・新田の農家を中心に一軒ずつ回り、「ニュース」を配りながら対話を重ねていった。住民は、急浮上した新滑走路計画に怒りと不安を持ちながら生活している。成田市行政は説明会を開いても「具体的には何も決まっていない」と繰り返すのみだが、国交省は候補地案まで示し、成田市商工会議所は「早期実現をめざす30万人署名」を推進している。自民党の林幹雄は衆院選(当選)で「第3滑走路実現」を公約に掲げている。

 反対同盟が届ける情報、見解、そして闘いの息吹が、地元に切実に待ち望まれている。宮本さんは、数々の質問にもていねいに答えながら、「反対同盟とともに声を上げましょう」と訴えて回った。行く先々で「ニュース」は、戦争体験者から若い世代まで真剣に読まれた。自営業の男性は、「先日買った萩原進さん著の『農地収奪を阻む』を知人に貸して回し読みしている。反対運動も真剣に次世代のリーダーづくりを」と要望し、宮本さんを励ました。

 夕刻に再び市東さん宅に集合し、一日の行動を集約した。各人が年の瀬の各地域で奮闘し、計2千部もの「ニュース」が空港周辺に配られたことが報告された。そして、年明けの1・11反対同盟団結旗開き、3・4農地裁判控訴審第4回弁論、3・29三里塚全国総決起集会へと、休む間もなく闘いを発展させる方向性が確認された。

 夜には反対同盟と支援連の忘年会が開かれた。市東さんが「来年こそ勝負の年。力を合わせて闘いましょう」とあいさつし、萩原富夫さんの音頭で乾杯。1年前に急逝した萩原進事務局次長の遺影を前に、その遺訓を胸に刻みながら、今年を振り返り来年への抱負を語り合い、最後は団結ガンバローで締めくくった。(TN)

全学連福島ブログ


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『 団 結!2008』

『ジュゴンとオバァ』(2007年・全編) 富田晋の青春

三里塚芝山連合空港反対同盟 動労千葉 星野さんをとり戻そう!全国再審連絡会議 労組交流センター
 動労千葉を支援する会
3・14法大弾圧を許さない法大生の会
北島邦彦の「すぎなみ未来BOX」
とめよう戦争への道!百万人署名運動

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