6月
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1日
2日 連日のガサ/午前中、練馬区に申し入れ行動その後、区職労を訪ねました/しいなさん、たみとやが激励のプレゼント―檄ベジアレ/報道4社が来て、記者会見
3日
4日 ギターが目茶苦茶うまい森川弁護士
5日 陣中見舞いコロンビアの餃子?
6日 「街」への不当な家宅捜索弾劾&第15回ふくしま共同診療所支援ライブ
7日 6・7国鉄闘争全国運動集会
8日 「街」日誌版を復活
9日 「街」を作った理由
10日 「作業所を立ち上げた時の“街”、そして今」
11日 弾圧を受けた通所者からカンパです/地域の人の怒りの声
12日 大量の団結・寿司の差し入れ
13日 沢山の応援のメッセージ/「街」への不当な家宅捜索弾劾&第16回ふくしま共同診療所支援ライブ
14日 ニーメラー牧師の告白
15日 新しい立看板、製作中!
16日 火曜恒例・千葉の新鮮・鮮魚 金目・ホウボウ・スズキ・アジ・イサキ・カマスの到着
17日 「人生劇場」=「街」劇場カラオケDVD
18日 朝、通勤前、「街」屋台街宣
19日 反原発福島行動の皆さんからの感動的な檄布&メッセージ
20日 第17回ふくしま共同診療所支援ライブ船長、渾身のライブ 船長・タイマーズ風、現場帰り姿
21日 現代の名工受賞記念「我道一路」 うんめ
22日 休日ですが、今日もやってます、「街」屋台!/元・МL派が来た
23日 今週の千葉鮮魚。キンメダイ、真コチ、マダ
24日 ますのすし、いただきます
25日 八尾北より元気の出る熱い応援メッセージ
26日 「心の病」労災認定、過去最多 背景には長時間労働
27日 「街」への不当な家宅捜索弾劾&第18回ふくしま共同診療所支援ライブ
28日 6・28集会
29日 障害者からの手紙
30日 弾圧粉砕の源、今週の千葉・鮮魚。鯛、金目鯛、真ゴチ、

6月9日(火)

広島連帯ユニオンより、重要な情報が寄せられました。作業所つぶしの攻撃は全国で激化しています。絶対に負けられません!
メッセージと合わせて以下、掲載します。

●山下真吾(広島連帯ユニオン青年部)
 6・7国鉄全国集会での署名の折には大変御世話になりました。...
警察権力による「街」弾圧に対し、広島の青年の一人として弾劾するとともに、安倍の労組破壊と闘う皆様へ、長文にはなりますが連帯のメッセージを送らせていただきます。

広島においても、昨年7月9日、8・6ヒロシマ大行動の共同代表であり、NAZENヒロシマのメンバーでもある室本けい子さんが運営する事業所“よもぎのアトリエ”に対し、広島市は、「指定(介護予防) 居宅サービス事業者の指定取消し」攻撃が行われました。(→http://www.city.hiroshima.lg.jp/…/…/1404698454402/index.html
警察権力の直接の弾圧が無かったとはいえ、これは、この度の「街」弾圧と全く同じ「給付金詐欺」をでっち上げ、地域住民の団結を破壊する構図の攻撃であると考えています。

室本さんは、婦人民主クラブ全国協・広島支部の読者会メンバーとしても反戦・平和運動の主体として、私たち広島連帯ユニオンをはじめ、広島の労働者と連帯し、安倍政権の戦争政治に怒りをたぎらせて闘ってこられました。
毎年、8・6ヒロシマ大行動を行う為に、私たち広島の労働者は、およそ5回の実行委員会を開催し、討論を重ねてきました。

そんな中で、昨年、“7・1集団的自衛権行使閣議決定”があり、それと一体で室本さんの事業所に対するこの攻撃がかかったのです。
これは、単なる反原発運動の高揚では無く、政権打倒の政治運動への発展に対する安倍自身の並々ならぬ恐怖の現れであると思います。

室本さんが事業所認定取消の書面の受け取りなどの通知を広島市役所で受けた日と、婦民広島支部が、広島市に対して安倍の平和式典参加への抗議の申し入れを行った日は、恐らくほとんど離れていなかったと記憶しています。(現在確認中)
どのような形であれ、広島市が安倍政権と一体である事は明白であり、労働者の団結を心の底から憎悪している何よりの証拠です。

だからこそ、「街」弾圧に屈せずに闘う皆さんと、私たちヒロシマの労働者との団結が重要になります。
今年の8・6に向け、実行委員会もすでに2回行われ、活発な議論がなされています。

今週11日(木)に3回目の実行委員会を行います。
そこで私も、皆さんの闘いについて実行委員会で発言するとともに、参加者へ“「オープンスペース街」を守る賛同署名とカンパ”を呼びかけたいと考えております。

安倍の戦争政治に対して労働運動で反撃し、労働者の団結=ゼネストで安倍打倒の闘いに打って出ましょう!

皆さん 共に闘って下さい!!!

紙の賛同署名用紙はこちらからプリントアウトできます。
回りの作業所、福祉労働者、労働組合などに広げてくださいませ。
http://rentaiunion2007.web.fc2.com/matisyomei.pdf

ホームページも立ち上げました。こちらをご覧下さい。自立支援法に反対してきた「街」のこれまでの取り組みも掲載されています。http://syakujiigawa.web.fc2.com/68-index.html

福祉事業所の労働組合委員長の方より、メールで賛同メッセージをいただきました。ありがとうございます!

●林武文 (個人)

ゆにおん同愛会執行委員長

...

仮に不正請求があったとしても警察の介入はまったく筋違いだし、メンバーさん宅への事情聴取は許せません。
警察は利用者の事などまったく考えていません。


朝、防衛隊   今週の千葉鮮魚   地域の人から続々支援
昼食は動労千葉物販そば



三里塚の人参の葉と桜えびの

かき揚げ

支援者、続々。地域の人たちは怒っています!
みんな「街」が大好きなんです。
地域の人たちとって、僕たちが勝手に思っていた以上に、「街」がどれだけ地域の人たちにとって大切な「場」なのかを教えられている。僕たちが作ってきたという「思い上がり」の浅はかさを思い知らされる。そのことで、この弾圧との闘いは地域の人たちとの「共同闘争」になった。
だから絶対に負けない。だって勝つのだから! ..

  徳島の人からの差し入れ「金時まんじゅう」で3時のお茶

夕食は火曜恒例・千葉の鮮魚デー。ガサがあっても継続中!
キンメ・チヌ・カワハギ・イサキの刺身を作ります。あら汁で…明日の弾圧粉砕のエネルギーに。食事は大事です

折角、注目されているので、「街」を作った理由という文を掲載しよう!

 以下の文章は、私がまだ共同作業所「ほっとすぺーす関町」の職員時代から「街」のボランティア時代の2年間、数回に渡り書いた文章です。そのため読み進むと、時間的に飛んでしまう表現がありますがご了承ください。

 また「福祉」についてキチンと学んだ経験もなく、共同作業所の職員になって数ヶ月の段階で書き始めたものなので、今読み返してみると乱暴で未熟な文章だなぁと赤面しますが、あえて改訂せずにそのまま掲載することにしました。

「街」を作った理由ハネやん

(1993年春から連載開始)

 1、共同作業所における低賃金の問題
自主運営のリサイクルショップ『オープンスペース街』は、共同作業所「ほっとすぺーす関町」のスタッフ3人、メンバー1人、地域の女性1人の5人を準備委員として、「ほっとすぺーす」運営委員会とは別個の形で設立された。
作った動機とその後の経過を書くと、1月に入ってすぐに、「ほっとすぺーす関町」としては初めてのメンバーとの個人面談が行なわれた。そこでメンバーの多くの声として出たのが、作業工賃の圧倒的低さの問題でした。1と月間働いて、わずか数千円たらずの低賃金。これが共同作業所の名のもとにまかり通っている。

 内職の袋張りや軽作業という作業の内容と共に、こうした低賃金はほとんど刑務所における懲役者と同じ状況下に置かれているといってもいい。そして、こうした下請労働こそが日本経済のいつわりの「繁栄」を支えてきたし、現に支えていることを決して忘れてはならない。

 メンバーの一人がこう書いた。「下請作業というのは、その賃金の恐るべき低さ、納期などの面で、私達、精神障害者の人間としての尊厳を傷つけられることが多い」という文章は、その点を鋭く指摘している。まさに共同作業所の作業というものは、つねにそうした問題性をはらんでいることに無自覚であってはなるまい。

 このことは同時に、共同作業所が「医療」から「福祉」、「地域の中での受け皿づくり」という面で果たしてきた役割は大きい。それは作業所に与えられた医療からの「入口」としての側面においてである。しかし当時、一部のメンバーにとって作業所から「社会」への「出口」の形態を考える時期にそろそろきている(勿論、「入口」としての役割を放棄するということでは決してないし、それはそれで、現段階では重要な意義がある)。

 1月のメンバーとの個人面談で突きつけられたのは、実はこの課題であった。「工賃をもっとほしい」というメンバーの切実な声は、共同作業所の日常活動に汲々としていた未熟なスタッフに対して共同作業所からの「出口」を切り拓くことを要求したのである。

 一般就労への援助か、職親をさがすことか、「ほっとすぺーす関町」とは違った形で工賃的に比較的高い自主的事業を始めるか、それとも、まったく別の形態か。 

 2、当事者に対する差別と偏見
『街』を作ろうと思った動機は、「精神障害者」(以下、当事者とする)の解放が共同作業所という枠内では不可能ではないかという疑問からだった。もし仮りに、「理想的な」作業所というものが実現できたとしても、それですべてが完結するものではないという想いを、勤め始めた当初から抱いていた。

 当事者に対する社会的な差別・偏見が温存されたままで、共同作業所が「良い共同作業所」として永遠に存続するような社会では、共同作業所は「第2の精神病院」と化してしまう。そうならないためには、当事者の人たちだけが変わればいいのでなく、本当の意味で変わらなければならないのは私たち「健常者」の側なのだ。事実、私自身、共同作業所の職員になるまでは、共同作業所の存在や、当事者の人たちが置かれてきた歴史や状況にほとんど無知だった。いや正直に書けば、マスコミの流す一方的で偏向した情報を無批判的に受け入れて、偏見をもっていたし、差別に加担していたといえる。

 「社会の人の障害者に対する偏見・蔑視」(明雄さん)、また、「精神障害者は怖い」という捏造が私たちの中に入り込む原因はどこにあるのか。それは、当事者の人たちと私たち「健常者」が、日常的にほとんど関わりをもたない点に由来する。

1、当事者の人たちが起こす事件がある度に、マスコミによる意図的としか言い様のないキャンペーンなどで、当事者に対する偏見がつくられていく、
2、そうした偏見があるので、つきあいが難しくなり
3、そして、つきあいがないから、よけい偏見が助長され、
4、偏見が拡大される結果、つきあいが更に難しくなっていく。

こうした悪循環をなんとしても断ち切りたいという思いが『街』を作った第2の理由でした。

 『街』で地域の人たちと出会う。その出会いの中で、当事者の本当の姿を知っていく。そして偏見が徐々に氷解されていく。いや、その過程を通して、私たち自身の身についていた「差別・偏見」という悪しき汚れをぬぐいとることができるのではないかと考えた。そうした『街』での出会いと、私たちの側に「厳しい自己点検、自己変革」(久保ヤン)という蓄積があってはじめて、差別も抑圧も偏見もない新しい『共生社会』の基礎がつくられるのであり、その社会にふさわしい内容をつくりだしていくことが可能となる。それに向けた第1歩として『街』がつくられた。差別と偏見を日常的なふれあいと交流を通して、『街』が目指している「障害のある人も・ない人も支えあって共に生きる街」づくりを前進させたいと考えた。

 3、当事者の住居問題
第3の理由は、当事者の住居問題です。
現在、日本では150万人の人が精神病院に通院し、35万人が入院していると言われている。練馬では約7千人の人が通院し、1900人の人が入院している。この35万人の退院が今日、緊急課題となっている。そのためには、退院後の生活の大前提であり、住居・アパート若しくは、世話人や医者などのケア付きの共同住居・グループホームの大量の創設が必要です。しかし、アパートを借りることは非常に困難と言わなければなりません。入院しているということを隠さなければアパートを貸してくれないのが実情でした。

 この35万人の退院ということを考えた場合、「35万人体制に改革の矛先を向けないままの『受け皿』論には、うさんくささが限りなくつきまとう」 現在の比較的症状の「軽い」人たちだけを共同作業所などに通ってもらうことで、事足りとしてはなるまい。

 今なお、多くの当事者たちが犯罪を犯したわけでもないのに、「閉鎖病棟の鉄格子の中に収容されているという惨状、この悲惨な人権侵害」(久良木さん)を決して忘れてはならない。

 入院している人は、刑事被告人や懲役者よりもひどい状況下に置かれている。刑事被告人は、弁護士接見という形で面会が認められている。また、懲役者は定期刑としてその期間さえつとめれば「娑婆」に出ることができる。これは、罪刑法定主義による「懲役者の人権」を守るものである。

 しかし、長期入院させられている人たちには、この『権利』さえ許されていない。そこでは病院の医師たちが裁判官や検察官を代行する。いや、そこでは被告の人権を守るべき弁護人の同席も許さない「欠席裁判」で、すべてが決定されて行く。正当な異議申立さえもすべて「病状」のせいにされて、保護室に入れられてしまう。これで法治国家といえるのだろうか! 暗黒裁判そのものです。まさにこれは、人権侵害そのものであり、「国家賠償の問題」(久良木さん)です。

 ともかく、あらゆる手段で長期入院の人たちを受け入れる住居を着実に作っていくこと。それと共に、三十五万人という大量の退院を実現していくためには、徐々に変えていく、一つ一つ積み重ねて行くという発想では限界がある。「ともかく退院という発想」(久良木さん)が不可欠です。

 また、「受け皿を地域に幾つか作る」ことで終わるのではなく、「地域を丸ごと受け皿化する」という中でしか、本当の解決方法はないのではないか。そのためには、『街』における地域の人たちとの熱い出会いを通して、その人たちとの固い連携と協力の下、「支えあい共に生きる街」づくりに向けて着実に前進していくことを夢想しました。 

 地域の人たちの立上がり
私は、いまだ見ぬ地域の人々との結合の可能性に賭けたといっていい。しかし開店の準備段階で「店の持続性」に対する疑問が提起された。「本当にやって行けるのだろうか?」と。しかし、私はそれに関してまったく楽天的であった。

 確かに当時の主体的力量を考えた場合、持続は困難だった。だが、私の中には地域の人々が必ず援助してくれるという「確信」があった。それは私の「人間は変わりうるもの」「民衆は必ず立ち上がる」という不動の確信に由来する。そして、地域の人たちが陸続として立ち上がっていくイメージの中に、『街』が成功する条件を見ていたといえる。そのイメージ、言い換えれば、そうした想像力(現実を変革する内容を基礎とする)に依拠することによって『街』は開店以前からすでに成功する条件を獲得していたといえる。また、そうした想像力とその実践なしには、今日いわれている「ノーマライゼーション」(私流にいえば、「支えあい共に生きる街」)は、そもそも絵に描いた餅にすぎない。

 「振り返ってみると……私の中にあったのは……個人の生をがんじがらめにしていく地域社会の否定的イメージ」と久保やんが以前の自分を振り返っていみじくも書いていたが、実際こうした地域と地域の人々に対する否定的イメージに捉われる傾向が強いのではないだろうか。ここからは、どうせ失敗する、やっても無駄ということしか出てこない。それはどうしてなのか? 歴史を正しく学んでいない、としか言いようがない。

 5月の連休に、『街』のみんなで奥秩父へキャンプに行ってきた。そしてバンガローで一泊した翌日、「秩父困民党」巡りをした。1884年、秩父困民党は秩父の谷間から武装蜂起し、郡役所を占拠して、「無政の郷」を作り出した。そして、「自由自治元年」という年号を制定する。「明治維新」前後の民衆運動史を我流でかじったことのある私は、ここに一度来てみたかった。

 よく「日本人は従順な民族」といわれているが、100年前の人たちは飛びっきり元気印だった。秩父蜂起は、自由民権運動の最後にして最高の形態である。11月1日の夜、手に手に武器を持った農民3000が椋神社に結集した。今回、椋神社には誰も集まっていなかったが、百数十年前の農民たちの喚声が今にも聞こえて来るようだった。当時の民衆は、まだまだ歴史を動かす主人公としての気概と原動力をもっていた。「20世紀末の人たちよ頑張れ」そう言われた気がした。

 つまり人類史を振り返ってみても、「地域の否定的なイメージ」は殆ど出てこない。それよりも、いつの時代においても民衆は元気なのである。逆にいうと、「民衆は元気」と思えないのは、「民衆が元気だと困る」「元気であってほしくない」という権力者の論理に絡めとられている。

 『街』開店以降の2か月の経験は、「民衆は元気」ということを証明した2か月であった。「ほっとすぺーす関町」と『街』、ボランティアと地域の人たちとの関係がさやかながら有機的に結合され始めた日々でした。詳細は省くが、ともかく、『街』開店以前の「ほっとすぺーす関町」の状況に比べて、開店後の活性化は、めざましいものがある。そうした前進を根底で支えているのは、32名の『街』のボランティア・スタッフでした。いくら『街』の設立スタッフの思い入れが強いものであろうと、こうしたボランティア・スタッフの人たちの援助なしには、『街』は存続し、発展することはできなかった。

 トリエステの教訓
羽仁五郎は『都市の論理』の中でこう書いている。「そこに地域社会があったか、なかったということより、そこに革命的性質があったか、なかったかということによって精神障害者の解放か、拘束か、ということが決定された」と。

 つまり「地域」ということを考えた場合、「地域一般」というものが問われているのではない。これまでは「行政に多くを依存しずぎてきた。住民による直接参加と自らの地域社会づくり」という傾向が強かったが、やはり行政の側からの(上からの)地域社会づくりに依存しないで、地域社会の主体である地域住民を中心とする「下からの」地域づくりというものこそが、羽仁五郎のいう「先進的な内容をもった地域」づくりを進めていく上で大切なことだと思った。

 イタリアでは、その歴史性を利用し、地域との結びつきを強める中で精神医療改革を社会改革の一環としてすすめていった。トリエステのバザーリア医師は、従来の精神医療をのりこえる道を提起する。それは医師・「患者」関係を根本的にひっくり返すことである。当事者の「病気ではなく、苦悩の問題に共同してかかわる時、彼と私との関係、彼と他者との関係も変化してきます。そこから抑圧への願望もなくなり、現実の問題が出てくる。自らの問題が心理学的な問題などではなく、社会的、それゆえに政治的な問題であることを学びます」と。そして、そこから医師と「患者」の関係だけでなく、入院制度の問題、制度と住民一般との全く新しい関係を展開していくことになる。

 バザーリアはトリエステの解体に際してこう語った。「病院の壁が残っているかどうかは問題ではありません。私たちは壁の内外を変えることによって、施設の論理を破壊するのです」と。

 地域との結合
イタリアの北部にあるパルマ県の「草の根精神医療」は、1969年の学生たちによるコロルノ精神病院の占拠によって開始の鐘を告げ知らせた。35日間にわたる占拠闘争の中でパルマ全体が活性化していく。「何百回と集会をもった。工場でも、公民館でも、あちこちの町や村でも。あらゆる人がそれに参加した。労働者も、農民も、知識人も、そして患者自身も」

 またこの占拠闘争には、多くの患者さんが参加した。病院での会議で、彼らの多くが発言し、自らの要求(思想の自由、自己決定権など)を伝えた。このように多くの地域住民の参加の中で「草の根精神医療」がすすめられたパルマとは、いかなる地域だったのか? この精神医療改革の進展をみるとき、パルマの歴史を抜きには語れない。

 1922年、ムッソリーニの「ローマ行進」に対して、ファシストを追放しバリケードを作って抵抗したり、1943~45年にはナチスの占領軍に対してパルチザンを結成して闘った。北イタリアのいたる所で労働運動の歴史があり、こうしたファシズムとの闘いと分かちがたく結びついている。冒頭で書いたように「精神医療改革を社会改革の一環」としてすすめていく根拠がここにある。

 精神医療改革の闘いが、多数の住民の参加のもとで展開される所はどこでも、こうした労働者組織が強く根を張っている。当事者の社会参加を実現しようとするとき、こうしたグループの協力があった。それは労組や協同組合、社共の分会のほかに、文化、歌、狩り、釣りのクラブにいたるまでの各組織網がフルに動員されたのである。

 ともかく『街』を基軸とした地域との関わりの中で切り開いてきた5ケ月間の成果と教訓を生かしきり、さらなる飛躍に向けて前進していきたいと思う。「病気が精神病院で超克されるとは思わない。私たちは外部社会で病気にうち勝たなければならないし、それは社会が変わることでそうなるのだと思う」

4、『街』の2年間の実践から
 早いものでオープンスペース『街』は開店2周年を迎える。同時に私が「ほっとすぺーす関町」を辞めてから1年が経った。簡単に、この1年間を振り返ってみたい。低賃金の改善、偏見・差別の問題、生活支援・住居問題、地域との関わり、以上の4点が『街』を開店した主な理由であった。

 作業所から地域へ
 以上4点は、社会=地域との関係性の変革とまとめることができる。それは、従来の当事者・作業所と地域との「閉ざされた関係」を「開かれた関係」へ変えることである。しかし「地域に開かれた作業所・場」を目指すというが、実際この点が最も困難である。

 「つくりっこの家クラブハウス」発行の『つくりっこだより』の中にこういう文章がのっていた。「地域で作業所を開きたいと地域の中に作業所をつくっても、地域とのかかわりがとぼしく結果的に閉鎖的な場になってしまうことが、ままある」と窪田氏(クボタクリニック)の話を引用し「そういう状況というのは、ありがちなこと」と筆者は書いている。

 このことは多くの作業所の設立過程にも共通する課題でもある。それは、当事者の人たちの置かれている厳しい状況(共同作業所の設立に対して住民の反対運動が起きるなど)に規定されて、地域の外部から、ある意味で強制着陸させる形で作業所を設立せざろうえなかったことに関連している。つまり作業所設立の出発点が、当事者の家族たちを中心とする地域を巻き込んだ住民運動として展開してこなかった(いや、できない困難性があった)点に由来している。

 言い換えると、多くの作業所があらかじめ「閉ざされた場」として出発せざるをえなかったといえるだろう。勿論、別の形で設立された作業所もある。「つくりっこだより」の筆者は、「クラブハウスは作業所でありながら地域から生まれたという類いまれな存在」と書いている。まさにそれは、「つくりっこの家クラブハウス」を設立する以前の十余年間の着実で豊富な活動に裏打ちされた言葉そのものである。

偏見・差別の問題 
 しかし『街』は、地域運動の蓄積が全くないという所から出発したのだから、いまさらジタバタしたって始まらない。問題は「閉鎖的な場」をいかに「地域に開かれた作業所・場」に変えて行くのかという点にあった。紙面の都合上結論だけ書くと、『街』開店以来の1年間を振り返ってみると「まあ、いい線を行ってるんじゃないか!」と思っている。『街』の1年間の方針と実践は、差別と偏見という課題を正面から掲げて地域の中へ大胆に飛び込むことであった。

 当事者に対する偏見が作られていく構造を、「当事者の人たち」と「地域の人たち」が実際にふれあい・交流することを通して突き崩して行く方法をとった。それも出来るだけ大量の地域の人々との交流を目指した。

 「『街』で地域の人たちと出会う。その出会いの中で、当事者の本当の姿を知っていく。そして偏見が徐々に氷解されていく。いや、その過程を通して私たち自身の身についていた『差別と偏見』という悪しき汚れをぬぐいとることができるだろう」(『街』で思うこと2)と以前に書いた。

 昨年、『街』のお客さんから、「ほっとすぺーす関町」に4件の仕事依頼があった。Aさん、Bさんは共に『街』が開店した当初からのお客さんで、『街』の活動をつぶさに見て来た人たちである。Aさん、Bさんは『街』へ働きに来る「ほっとすぺーす」のメンバーたちとの日常的な交流を一年間、蓄積してきたともいえる。その蓄積の中から信頼関係が生まれ、仕事の依頼へと繋がったのである。そして、そうした信頼関係を生みだした原動力は「ほっとすぺーす」のメンバーや当事者一人ひとりの豊かな人間性そのものにほかならない。

 しかし、こうした信頼関係が生まれたことだけで単純に喜んではいられない。『街ニュース』18号でH氏はこう書いている。

 「『精神障害者』の地域生活の現実は厳しく偏見や差別は変わっていません。『精神障害者』のみならず『障害者』が地域で生きるということの辛さは、死活のかかった問題としてあります」と、H氏が指摘しているように「現実は厳しく、偏見や差別は変わっていない」と言わざろうえない。実はこの仕事依頼の過程で、ある差別事件が発生した。Aさんの仕事依頼の中で、Aさんの外部の人から「精神障害者」に対する差別的な発言があった。「ほっとすぺーす関町」や『街』を一歩出ると偏見と差別はまだ色濃く残っている。ただ一言つけ加えると、そうした差別的な発言に対して断固として立ち向かったのがAさんその人であった。「間違っているのは当事者の人でなく、アナタの方だ!」という立場を最後まで貫きえたことの中に、1年前のAさんに比べて大きなな変革がある。まさに、そうした立場に立ちえたのはこの一年間、『街』において当事者の人たちとふれあい・交流してきたことの結果といえるであろう。

地域の底辺から
 『街』における1年間の活動を通して、私自身のスタンスが変化してきた。最初は「ほっとすぺーす」からだけの視点で地域のことを考えていた。しかし『街』において、「ほっとすぺーす関町」のメンバーの人たちだけではなく、関町で暮らしている他の共同作業所・病院のデイケアに通うメンバーの人たち、作業所へ通えない人たちなど100人近い当事者と出会うことができた。

 そして「街」が「オープンスペース」(地域の人たちに開かれた場)であるがゆえに、当事者だけでなく他の様々な「障害者」を持った人たち、一人暮らしの高齢者、在日アジア人外国人労働者やその他の人たちと出会った。そして彼らがこの地域社会の中で、生きる上での困難性に直面してること知らされた。

 それゆえ『街』は、地域に開かれた場として作られたことで、「よろず相談の場」になった。しかし開店当初、この「オープンスペース」の思いは、抽象的なスローガンにすぎなかった。それが、この1年間の実践の中で徐々にではあるが具体的なものになりつつある。

 そのことに踏まえて『街』の今後の方向性は、作業所から地域のことをを考え始めるのでなく、地域の底辺から、地域の一部分(一構成要素)としての「ほっとすぺーす関町」や慈雲堂病院、また関町生活実習所や、さらに他の「障害」をもっている人たち、高齢の「障害者」の方々、在日アジア人の皆さん、その他、今の社会=地域が生きづらいと思っている人たちと手を結び、今の生きづらい「町」を「障害」のある人も・ない人も支えあって共に生きる「街」へと、さらに前進していきたいと考えています。

お疲れさまでした。


 原稿依頼があったので、「街」の歴史を素描してみました。2002.2
 「街」から「ジュゴンの家」へ/ハネやん
1、「街」から
 1993年、共同作業所の職員時代に自主運営のリサイクルショップ「オープンスペース街(まち)」(以下、「街」)の設立に関わって以来、いろいろな場を作っては、壊してきた。
 
 地域で暮らしていた病院のデイケアのメンバーの自殺をキッカケに、94年に立ち上げた憩いと相談の場「関町ケアネットワーク」は、携帯電話の広がりと共にその役目を終えた。
 
 95年に作った、食と楽しみの場・沖縄料理店「チャンプルー街」も、2001年6月に惜しまれつつ閉店した。
 
 ワープロにモデムを繋ぎながら始めたワープロ通信の時代、そしてインターネットの勃興期、「街」のホームページの中にある掲示板「心の広場」には、全国の若者たちの悩みが書き込まれ、それに応えるため24時間、携帯電話による相談を始めた。
 
 そして地方で孤立している若者たちが宿泊しながら学びあえる場・「ステイ街」が出来た。一時は、リサイクルショップ「街」の前にあるマンションを3戸借り、「関町ケアネットワーク」を含め多い時で10人以上の若者たちが宿泊していた。そして若者たちの内の何人かが自立していった。

 ある日、インターネットを通じて「街」のことを知り、引きこもり・通院・入院を繰り返していた息子を連れた母親がやってきた。Kさん(26才)を初めて見た時、思わず「高校生みたいだ」と思ったほど幼い顔をしていた。
 
 「今まで息子のためにいくらお金を使ったか知れない」 母親は定年を間近にひかえ、「もうこれ以上息子の面倒は見れない」「これが最後のチャンス」という悲壮な覚悟で「街」にやって来た。Kさんにも「もう、これまでの生活を続けたくない」というギリギリの覚悟があった。 Kさんは「街」で二週間の研修を終えた後、近くにアパートを借りて自立生活を始めた。御飯の炊き方も知らなかった彼だったが、まもなく「街」を卒業し、地域商店でアルバイトをはじめた。高校中退のKさんは近くにある定時制高校に通い、その後専門学校に進学した。そして今年初め、植木屋に就職が決まって、この街から巣立って行った。
 
 Kさんとは、何度も衝突して出て行ったり、否を詫びて戻ってきたり、本当に沢山のエピソードがあった。彼が自立できた理由は、Kさんの意地と素直さ、「生れ変わりたい」 という強い意志、それと「これが最後のチャンス」という母親の覚悟にあったのではないかと思う。
 
 その「ステイ街」も今は、混在型グループホーム「ハウス街」という一戸建ての家へと形を変えた。そこではかつての「ステイ街」の機能の他に、知的なハンディキャップを持った人たちの自立体験の場などになっている。
 
 リサイクルショップ「街」、憩いと相談の場「関町ケアネットワーク」、沖縄料理店「チャンプルー街」、宿泊研修の場「ステイ街」という4つの場は、今、「街」と「ハウス街」の二つに整理・縮小した。それでも衣・食・住+憩い・相談を、保障しえているのではないかと思っている。
 
2、「ジュゴンの家」へ
 「街」が出来た後、「街」のリサイクルショップ方式は、小平「カジャ」、三ノ輪「ゆいまある」、沖縄・名護「ジュゴンの家」、そして那覇「はんたぴあ」へと引き継がれた。
 
 「久良木さんの『日本全国・出会いの旅』沖縄編で紹介されていた女性で、「てるしのワークセンター」とか家族会の仕事をされている山里さんを交え、久良木さんの思い出、沖縄の精神保健の現状、『街』の目指している方向性など、日が暮れるのも忘れ語り合いました。話している中で、リサイクルショップ『街』名護店構想が僕の中でムクムクと頭をもたげてきた。

 沖縄に来て半月。第1期・ジュゴンの家から第2期・ジュゴンの家へ。この半月の過程は、『僕たちが沖縄で出来ること、沖縄の人たちと連帯する道、その内容を本土に持ちかえり、再びそれをふくらませて沖縄にフィードバックすること』を模索し、思考錯誤する半月でした。

 僕たちができること。徹底的に『地域』にこだわること。『連帯・共闘』を声高に叫ぶことではなく、地域の人たちの生活に根ざした現実から出発すること。これが『街』の精神・スタイルだ。たとえどんなに小さくても、一歩一歩堅実な前進を積み重ねて行きたいという想いで一杯になった」(2000.8.31「ジュゴンの家」日誌) 
 2000年秋、4つの場の整理・縮小に伴って生れた力を、沖縄・名護のリサイクルショップ「ジュゴンの家」へ注ぎ込んだ。当初は、僕たち年寄組と、アリちゃん・ようこちゃんの若者組が、半月交代で「ジュゴンの家」を運営するという計画を立てていた。アリちゃんは、インターネットを通じて「街」と知り合った北海道出身の引きこもり・入院を体験した青年。その後、僕と共に沖縄料理店「チャンプルー街」のシェフとなり、生きづらさから自らを解放した。
 
 2000年10月15日の「ジュゴンの家」のオープンの手伝いに来ていた埼玉県の不登校の高校一年生・晋君は一年間、
「ジュゴンの家」の店長をつとめた後、昨秋から「ジュゴンの海の家」という移動式コミュニケーションの場を一人でスタートさせた。
 
「失敗は成功の素」
 若者たちの可能性を信じ、責任ある仕事につかせることが成長につながる、というやり方を僕たちは取ってきた。失敗したら一緒に考えて、そこから教訓を学びとればいい。
 
 昨年6月、不登校・通院・入院を経験している群馬県出身のUさん(23才)が、名護に移り住み、11月から「ジュゴンの家」の店長となった。昨年末には東京出身のSさん(24才)が沖縄に来た。彼は小学校の時から不登校を続け、通院体験者でもあるが、今では立派に「ジュゴンの家」の店長代理をこなしている。「ジュゴンの家」の若者は元気で信頼できる若者として、沖縄の人々に認められ、愛されている。生きづらかった過去を乗り越えて、沖縄のおじい・おばあたちの希望の星となっている。 
 
3、「病」、癒し、から、解放へ
 押し付けられた生きづらさ、それを癒すだけでいいだろうか? 僕たちは、「病」・癒しではなく、人が人として生きることのできる社会づくりをする中で、自らを解放したい!
 
 2月3日の名護市長選挙。宮城康博さんの勇気ある立候補に対して、「街」と「ジュゴンの家」は12名で応援に行った。何しろ彼は、僕たちのバンド「ヨッシー&ジュゴンの家」のベースマンなのだから。その間「街」を守ったのは、メンバー、ボランティアさん、・お客さんたちだった。
 
 選挙戦など一度もやったことのない僕らだったが、ギターを弾き、歌を唄いながら朝から晩まで市街地を練り歩いて沢山の市民に訴えた。現市長の権力と金を使った無法選挙に一歩もひるまず、心の病やハンディキャップを乗り越えて最後までやり抜いた。当選を勝ち取れなかったとはいえ、僕たちに敗北感などない。やり抜いた勝利感で一杯である。
 
 「街」「ジュゴンの家」は本当に名護市長選を闘えて良かった。そして、やり抜くことの中で一人一人の足りない部分も知ることができた。更なる飛躍のための宿題として、選挙後、点検し、ただちに新しい挑戦を始めている。
 
 「病気が精神病院で超克されるとは思わない。私たちは外部社会で病気にうち勝たなければならないし、それは社会が変わることでそうなるのだと思う」(イタリア・トリエステの教訓) 
                  2002.2 記
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