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1日 | |
2日 | 連日のガサ/午前中、練馬区に申し入れ行動その後、区職労を訪ねました/しいなさん、たみとやが激励のプレゼント―檄ベジアレ/報道4社が来て、記者会見 |
3日 | |
4日 | ギターが目茶苦茶うまい森川弁護士 |
5日 | 陣中見舞いコロンビアの餃子? |
6日 | 「街」への不当な家宅捜索弾劾&第15回ふくしま共同診療所支援ライブ |
7日 | 6・7国鉄闘争全国運動集会 |
8日 | 「街」日誌版を復活 |
9日 | 「街」を作った理由 |
10日 | 「作業所を立ち上げた時の“街”、そして今」 |
11日 | 弾圧を受けた通所者からカンパです/地域の人の怒りの声 |
12日 | 大量の団結・寿司の差し入れ |
13日 | 沢山の応援のメッセージ/「街」への不当な家宅捜索弾劾&第16回ふくしま共同診療所支援ライブ |
14日 | ニーメラー牧師の告白 |
15日 | 新しい立看板、製作中! |
16日 | 火曜恒例・千葉の新鮮・鮮魚 金目・ホウボウ・スズキ・アジ・イサキ・カマスの到着 |
17日 | 「人生劇場」=「街」劇場カラオケDVD |
18日 | 朝、通勤前、「街」屋台街宣 |
19日 | 反原発福島行動の皆さんからの感動的な檄布&メッセージ |
20日 | 第17回ふくしま共同診療所支援ライブ船長、渾身のライブ 船長・タイマーズ風、現場帰り姿 |
21日 | 現代の名工受賞記念「我道一路」 うんめ |
22日 | 休日ですが、今日もやってます、「街」屋台!/元・МL派が来た |
23日 | 今週の千葉鮮魚。キンメダイ、真コチ、マダ |
24日 | ますのすし、いただきます |
25日 | 八尾北より元気の出る熱い応援メッセージ |
26日 | 「心の病」労災認定、過去最多 背景には長時間労働 |
27日 | 「街」への不当な家宅捜索弾劾&第18回ふくしま共同診療所支援ライブ |
28日 | 6・28集会 |
29日 | 障害者からの手紙 |
30日 | 弾圧粉砕の源、今週の千葉・鮮魚。鯛、金目鯛、真ゴチ、 |
6月9日(火) |
広島連帯ユニオンより、重要な情報が寄せられました。作業所つぶしの攻撃は全国で激化しています。絶対に負けられません! ●山下真吾(広島連帯ユニオン青年部) 広島においても、昨年7月9日、8・6ヒロシマ大行動の共同代表であり、NAZENヒロシマのメンバーでもある室本けい子さんが運営する事業所“よもぎのアトリエ”に対し、広島市は、「指定(介護予防) 居宅サービス事業者の指定取消し」攻撃が行われました。(→http://www.city.hiroshima.lg.jp/…/…/1404698454402/index.html) 室本さんは、婦人民主クラブ全国協・広島支部の読者会メンバーとしても反戦・平和運動の主体として、私たち広島連帯ユニオンをはじめ、広島の労働者と連帯し、安倍政権の戦争政治に怒りをたぎらせて闘ってこられました。 そんな中で、昨年、“7・1集団的自衛権行使閣議決定”があり、それと一体で室本さんの事業所に対するこの攻撃がかかったのです。 室本さんが事業所認定取消の書面の受け取りなどの通知を広島市役所で受けた日と、婦民広島支部が、広島市に対して安倍の平和式典参加への抗議の申し入れを行った日は、恐らくほとんど離れていなかったと記憶しています。(現在確認中) だからこそ、「街」弾圧に屈せずに闘う皆さんと、私たちヒロシマの労働者との団結が重要になります。 今週11日(木)に3回目の実行委員会を行います。 安倍の戦争政治に対して労働運動で反撃し、労働者の団結=ゼネストで安倍打倒の闘いに打って出ましょう! |
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皆さん 共に闘って下さい!!! 紙の賛同署名用紙はこちらからプリントアウトできます。 ホームページも立ち上げました。こちらをご覧下さい。自立支援法に反対してきた「街」のこれまでの取り組みも掲載されています。http://syakujiigawa.web.fc2.com/68-index.html |
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福祉事業所の労働組合委員長の方より、メールで賛同メッセージをいただきました。ありがとうございます! ●林武文 (個人) ゆにおん同愛会執行委員長 ... 仮に不正請求があったとしても警察の介入はまったく筋違いだし、メンバーさん宅への事情聴取は許せません。 |
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朝、防衛隊 今週の千葉鮮魚 地域の人から続々支援 | ||
昼食は動労千葉物販そば 三里塚の人参の葉と桜えびの かき揚げ |
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支援者、続々。地域の人たちは怒っています! 徳島の人からの差し入れ「金時まんじゅう」で3時のお茶 |
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夕食は火曜恒例・千葉の鮮魚デー。ガサがあっても継続中! キンメ・チヌ・カワハギ・イサキの刺身を作ります。あら汁で…明日の弾圧粉砕のエネルギーに。食事は大事です |
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折角、注目されているので、「街」を作った理由という文を掲載しよう! |
以下の文章は、私がまだ共同作業所「ほっとすぺーす関町」の職員時代から「街」のボランティア時代の2年間、数回に渡り書いた文章です。そのため読み進むと、時間的に飛んでしまう表現がありますがご了承ください。 |
「街」を作った理由・ハネやん(1993年春から連載開始) |
1、共同作業所における低賃金の問題 内職の袋張りや軽作業という作業の内容と共に、こうした低賃金はほとんど刑務所における懲役者と同じ状況下に置かれているといってもいい。そして、こうした下請労働こそが日本経済のいつわりの「繁栄」を支えてきたし、現に支えていることを決して忘れてはならない。 1月のメンバーとの個人面談で突きつけられたのは、実はこの課題であった。「工賃をもっとほしい」というメンバーの切実な声は、共同作業所の日常活動に汲々としていた未熟なスタッフに対して共同作業所からの「出口」を切り拓くことを要求したのである。 2、当事者に対する差別と偏見 3、当事者の住居問題 地域の人たちの立上がり 5月の連休に、『街』のみんなで奥秩父へキャンプに行ってきた。そしてバンガローで一泊した翌日、「秩父困民党」巡りをした。1884年、秩父困民党は秩父の谷間から武装蜂起し、郡役所を占拠して、「無政の郷」を作り出した。そして、「自由自治元年」という年号を制定する。「明治維新」前後の民衆運動史を我流でかじったことのある私は、ここに一度来てみたかった。 『街』開店以降の2か月の経験は、「民衆は元気」ということを証明した2か月であった。「ほっとすぺーす関町」と『街』、ボランティアと地域の人たちとの関係がさやかながら有機的に結合され始めた日々でした。詳細は省くが、ともかく、『街』開店以前の「ほっとすぺーす関町」の状況に比べて、開店後の活性化は、めざましいものがある。そうした前進を根底で支えているのは、32名の『街』のボランティア・スタッフでした。いくら『街』の設立スタッフの思い入れが強いものであろうと、こうしたボランティア・スタッフの人たちの援助なしには、『街』は存続し、発展することはできなかった。 トリエステの教訓 つまり「地域」ということを考えた場合、「地域一般」というものが問われているのではない。これまでは「行政に多くを依存しずぎてきた。住民による直接参加と自らの地域社会づくり」という傾向が強かったが、やはり行政の側からの(上からの)地域社会づくりに依存しないで、地域社会の主体である地域住民を中心とする「下からの」地域づくりというものこそが、羽仁五郎のいう「先進的な内容をもった地域」づくりを進めていく上で大切なことだと思った。 イタリアでは、その歴史性を利用し、地域との結びつきを強める中で精神医療改革を社会改革の一環としてすすめていった。トリエステのバザーリア医師は、従来の精神医療をのりこえる道を提起する。それは医師・「患者」関係を根本的にひっくり返すことである。当事者の「病気ではなく、苦悩の問題に共同してかかわる時、彼と私との関係、彼と他者との関係も変化してきます。そこから抑圧への願望もなくなり、現実の問題が出てくる。自らの問題が心理学的な問題などではなく、社会的、それゆえに政治的な問題であることを学びます」と。そして、そこから医師と「患者」の関係だけでなく、入院制度の問題、制度と住民一般との全く新しい関係を展開していくことになる。 地域との結合 1922年、ムッソリーニの「ローマ行進」に対して、ファシストを追放しバリケードを作って抵抗したり、1943~45年にはナチスの占領軍に対してパルチザンを結成して闘った。北イタリアのいたる所で労働運動の歴史があり、こうしたファシズムとの闘いと分かちがたく結びついている。冒頭で書いたように「精神医療改革を社会改革の一環」としてすすめていく根拠がここにある。 4、『街』の2年間の実践から 作業所から地域へ このことは多くの作業所の設立過程にも共通する課題でもある。それは、当事者の人たちの置かれている厳しい状況(共同作業所の設立に対して住民の反対運動が起きるなど)に規定されて、地域の外部から、ある意味で強制着陸させる形で作業所を設立せざろうえなかったことに関連している。つまり作業所設立の出発点が、当事者の家族たちを中心とする地域を巻き込んだ住民運動として展開してこなかった(いや、できない困難性があった)点に由来している。 言い換えると、多くの作業所があらかじめ「閉ざされた場」として出発せざるをえなかったといえるだろう。勿論、別の形で設立された作業所もある。「つくりっこだより」の筆者は、「クラブハウスは作業所でありながら地域から生まれたという類いまれな存在」と書いている。まさにそれは、「つくりっこの家クラブハウス」を設立する以前の十余年間の着実で豊富な活動に裏打ちされた言葉そのものである。 偏見・差別の問題 地域の底辺から そして「街」が「オープンスペース」(地域の人たちに開かれた場)であるがゆえに、当事者だけでなく他の様々な「障害者」を持った人たち、一人暮らしの高齢者、在日アジア人外国人労働者やその他の人たちと出会った。そして彼らがこの地域社会の中で、生きる上での困難性に直面してること知らされた。 それゆえ『街』は、地域に開かれた場として作られたことで、「よろず相談の場」になった。しかし開店当初、この「オープンスペース」の思いは、抽象的なスローガンにすぎなかった。それが、この1年間の実践の中で徐々にではあるが具体的なものになりつつある。 |
お疲れさまでした。 |
原稿依頼があったので、「街」の歴史を素描してみました。2002.2 |
「街」から「ジュゴンの家」へ/ハネやん |
1、「街」から
1993年、共同作業所の職員時代に自主運営のリサイクルショップ「オープンスペース街(まち)」(以下、「街」)の設立に関わって以来、いろいろな場を作っては、壊してきた。 地域で暮らしていた病院のデイケアのメンバーの自殺をキッカケに、94年に立ち上げた憩いと相談の場「関町ケアネットワーク」は、携帯電話の広がりと共にその役目を終えた。
95年に作った、食と楽しみの場・沖縄料理店「チャンプルー街」も、2001年6月に惜しまれつつ閉店した。
ワープロにモデムを繋ぎながら始めたワープロ通信の時代、そしてインターネットの勃興期、「街」のホームページの中にある掲示板「心の広場」には、全国の若者たちの悩みが書き込まれ、それに応えるため24時間、携帯電話による相談を始めた。
そして地方で孤立している若者たちが宿泊しながら学びあえる場・「ステイ街」が出来た。一時は、リサイクルショップ「街」の前にあるマンションを3戸借り、「関町ケアネットワーク」を含め多い時で10人以上の若者たちが宿泊していた。そして若者たちの内の何人かが自立していった。
ある日、インターネットを通じて「街」のことを知り、引きこもり・通院・入院を繰り返していた息子を連れた母親がやってきた。Kさん(26才)を初めて見た時、思わず「高校生みたいだ」と思ったほど幼い顔をしていた。 「今まで息子のためにいくらお金を使ったか知れない」 母親は定年を間近にひかえ、「もうこれ以上息子の面倒は見れない」「これが最後のチャンス」という悲壮な覚悟で「街」にやって来た。Kさんにも「もう、これまでの生活を続けたくない」というギリギリの覚悟があった。 Kさんは「街」で二週間の研修を終えた後、近くにアパートを借りて自立生活を始めた。御飯の炊き方も知らなかった彼だったが、まもなく「街」を卒業し、地域商店でアルバイトをはじめた。高校中退のKさんは近くにある定時制高校に通い、その後専門学校に進学した。そして今年初め、植木屋に就職が決まって、この街から巣立って行った。
Kさんとは、何度も衝突して出て行ったり、否を詫びて戻ってきたり、本当に沢山のエピソードがあった。彼が自立できた理由は、Kさんの意地と素直さ、「生れ変わりたい」 という強い意志、それと「これが最後のチャンス」という母親の覚悟にあったのではないかと思う。 その「ステイ街」も今は、混在型グループホーム「ハウス街」という一戸建ての家へと形を変えた。そこではかつての「ステイ街」の機能の他に、知的なハンディキャップを持った人たちの自立体験の場などになっている。
リサイクルショップ「街」、憩いと相談の場「関町ケアネットワーク」、沖縄料理店「チャンプルー街」、宿泊研修の場「ステイ街」という4つの場は、今、「街」と「ハウス街」の二つに整理・縮小した。それでも衣・食・住+憩い・相談を、保障しえているのではないかと思っている。
2、「ジュゴンの家」へ
「街」が出来た後、「街」のリサイクルショップ方式は、小平「カジャ」、三ノ輪「ゆいまある」、沖縄・名護「ジュゴンの家」、そして那覇「はんたぴあ」へと引き継がれた。 「久良木さんの『日本全国・出会いの旅』沖縄編で紹介されていた女性で、「てるしのワークセンター」とか家族会の仕事をされている山里さんを交え、久良木さんの思い出、沖縄の精神保健の現状、『街』の目指している方向性など、日が暮れるのも忘れ語り合いました。話している中で、リサイクルショップ『街』名護店構想が僕の中でムクムクと頭をもたげてきた。
沖縄に来て半月。第1期・ジュゴンの家から第2期・ジュゴンの家へ。この半月の過程は、『僕たちが沖縄で出来ること、沖縄の人たちと連帯する道、その内容を本土に持ちかえり、再びそれをふくらませて沖縄にフィードバックすること』を模索し、思考錯誤する半月でした。 僕たちができること。徹底的に『地域』にこだわること。『連帯・共闘』を声高に叫ぶことではなく、地域の人たちの生活に根ざした現実から出発すること。これが『街』の精神・スタイルだ。たとえどんなに小さくても、一歩一歩堅実な前進を積み重ねて行きたいという想いで一杯になった」(2000.8.31「ジュゴンの家」日誌) |
2000年秋、4つの場の整理・縮小に伴って生れた力を、沖縄・名護のリサイクルショップ「ジュゴンの家」へ注ぎ込んだ。当初は、僕たち年寄組と、アリちゃん・ようこちゃんの若者組が、半月交代で「ジュゴンの家」を運営するという計画を立てていた。アリちゃんは、インターネットを通じて「街」と知り合った北海道出身の引きこもり・入院を体験した青年。その後、僕と共に沖縄料理店「チャンプルー街」のシェフとなり、生きづらさから自らを解放した。
2000年10月15日の「ジュゴンの家」のオープンの手伝いに来ていた埼玉県の不登校の高校一年生・晋君は一年間、
「ジュゴンの家」の店長をつとめた後、昨秋から「ジュゴンの海の家」という移動式コミュニケーションの場を一人でスタートさせた。
「失敗は成功の素」
若者たちの可能性を信じ、責任ある仕事につかせることが成長につながる、というやり方を僕たちは取ってきた。失敗したら一緒に考えて、そこから教訓を学びとればいい。
昨年6月、不登校・通院・入院を経験している群馬県出身のUさん(23才)が、名護に移り住み、11月から「ジュゴンの家」の店長となった。昨年末には東京出身のSさん(24才)が沖縄に来た。彼は小学校の時から不登校を続け、通院体験者でもあるが、今では立派に「ジュゴンの家」の店長代理をこなしている。「ジュゴンの家」の若者は元気で信頼できる若者として、沖縄の人々に認められ、愛されている。生きづらかった過去を乗り越えて、沖縄のおじい・おばあたちの希望の星となっている。
3、「病」、癒し、から、解放へ
押し付けられた生きづらさ、それを癒すだけでいいだろうか? 僕たちは、「病」・癒しではなく、人が人として生きることのできる社会づくりをする中で、自らを解放したい! 2月3日の名護市長選挙。宮城康博さんの勇気ある立候補に対して、「街」と「ジュゴンの家」は12名で応援に行った。何しろ彼は、僕たちのバンド「ヨッシー&ジュゴンの家」のベースマンなのだから。その間「街」を守ったのは、メンバー、ボランティアさん、・お客さんたちだった。
選挙戦など一度もやったことのない僕らだったが、ギターを弾き、歌を唄いながら朝から晩まで市街地を練り歩いて沢山の市民に訴えた。現市長の権力と金を使った無法選挙に一歩もひるまず、心の病やハンディキャップを乗り越えて最後までやり抜いた。当選を勝ち取れなかったとはいえ、僕たちに敗北感などない。やり抜いた勝利感で一杯である。
「街」「ジュゴンの家」は本当に名護市長選を闘えて良かった。そして、やり抜くことの中で一人一人の足りない部分も知ることができた。更なる飛躍のための宿題として、選挙後、点検し、ただちに新しい挑戦を始めている。 「病気が精神病院で超克されるとは思わない。私たちは外部社会で病気にうち勝たなければならないし、それは社会が変わることでそうなるのだと思う」(イタリア・トリエステの教訓)
2002.2 記 |